ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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インタビュー三題ばなし( 吉村 信亮)2004年4月

~案じ、緊張し、振られ~
現役時代の出来事がどんどんセピア色のとばりの奥へ後退していく中で、いくつかのインタビューにまつわる思い出は別格です。大物や特異な人物に食らいついた、張り詰めた時間の記憶は、ジャーナリスト人生の里程標として、脳裏に焼き付いているのでしょう。

1984年夏、超ベテラン政治家出身外交官として、在任記録を更新していたアメリカの駐日大使マイケル・マンスフィールド氏。東京本社編集局デスクを務めていた私は、この飾らぬ老大人の豊かそうな内実を紙面に映し出せないか、と考えました。大使館に長時間インタビューを申し入れると、担当者は賛意を示しながらも、心配そうに言ったものです。

「あなたは知っていますか。大使は大抵の質問にイエスかノーとしか答えないので有名なことを」
私の弱気の虫が騒ぎ出しましたが、後へ引けません。ある質問に大使がイエスとだけ答えて、後が続かない場合、どんな二の矢を放つか。芝居の脚本もどきの細密シナリオ作りに、ないチエを絞る準備の日が続きました。

そして当日の朝。ドキマキしながら大使執務室のドアをたたいた私たち取材班は、大使の日本との、そもなれそめ探究から入りました。すると、どうでしょうか。覚悟した〝一語返答〟どころか、大使の口からは若き日の物語が切れ目なく流れ出しました。

<十四歳の時、世界見たさに、18歳と偽り海軍に入隊した。中国遠征の帰途、長崎入港で初めて日本の土を踏み、それが縁でアジアのとりこに。除隊後、郷里で日給四㌦余の鉱夫となったが、妻の強い勧めで学校に入り直した。いまあるのは妻のおかげ。彼女以上に恩のある人はいない>

結局、後に『日本の友へ』と題する連載になったインタビューは四時間近く。〝口数少ない〟大使相手の世界最長記録と冷やかされました。案ずるより産むが易し、のお手本です。

1989年秋、冷戦終結へ向けて、東欧圏は雪崩を打ちました。東京本社論説室に転じていた私は翌九〇年の新年企画用として、体制論の老大家、ハーバード大学のジョン・ガルブレイス博士の意見を聴きたいと思いました。暮れも押し詰まってボストンに飛んだのですが、大一番のインタビュー前夜のこと。私は極度の緊張のあまり、一睡もできません。そのまま朝を迎えたのです。

もちろん、頭はもうろう。朝食もノドを通りません。木枯らしを余計に寒く感じながら、同行してくれたアメリカ総局長の林茂雄君の助けも借りて、博士の自宅を訪ねました。大事を前にして、最悪のコンディションです。

それでも、インタビューは期待通りに進みました。博士は諄々と説いていきます。

<いま挫折した社会主義も、帝政ロシアの封建主義を倒して、重工業を興したあたりまでは成功を収めた。が、多様なニーズを抱える消費財生産の段階に来て、硬直した体制は対応できなかった。ただ、これで「資本主義の勝利」と叫ぶ連中は阿呆だ。資本主義も社会主義から学び、福祉国家に軌道修正した歴史を見なければ>

しかし、三時間も過ぎて、決定的に睡眠不足の私の脳は変調をきたします。博士は「キミのその質問は二度目だぞ」とカミナリを落としました。この一喝で、四時間余りのインタビューは、なんとか持ちこたえることができました。

終わって、温顔を取り戻した、背丈二㍍余の〝世界最高の学者〟は、並んで記念写真に収まろうとした、身長差五十㌢の私に命じました。「キミは階段の二段上に立ちなさい」。

年月はさかのぼって、1970年春。ブラジルはサンパウロ駐在の大口信夫総領事が地元の都市ゲリラに誘拐される事件が起きました。この種の犯罪のはしりです。ニューヨーク支局の特派員だった私は、初めて南米に飛びました。

世界最大のサンパウロ日系人社会は大騒ぎです。軍事独裁政権に対抗するゲリラ側は、自国にとって大事な大国の代表を人質に取ったうえ、その交換条件として、刑務所にいる仲間の釈放を求める狙いでした。この時も、四日後に獄中の政治犯五人が釈放され、中立国のメキシコに送り届けられたのが確認されると、大口総領事も無事生還しました。

その後、慣れない遠隔の地での取材合戦を終えて、特派員仲間らと風光明媚なリオデジャネイロで一息入れていた時です。本社から、釈放政治犯を追ってメキシコシティーへ急げ、という非情な指令が飛び込んできました。一味の中に日系青年がいるから、会え、というのです。

こっそりリオを脱出した私は、メキシコ入りするなり、首都の秘密警察本部にシズオ・オザワ青年への面会を申し入れました。警察は意外に協力的で、市内の隠れ家に保護されている、ポルトガル語しか話さないこの青年に、通訳まで付けて会わせてくれました。

胸躍らす私に、オザワ青年は、とつとつと語りました。

<サンパウロ大学で哲学を学んだが、特権階級に富が集中する国の現状に我慢ならず、ゲリラに加わった。両親ら一世の勤勉さなどを誇りに思うが、私は日本人じゃないので、日系社会からゲリラが出たことを悲しむ一世らを意に介することはない>

スクープ成れり、と悦に入った私は、エリザベス・テーラーばりの通訳嬢に「お礼に夕食でも」と誘いました。警察の上司に相談してくる、と気を持たせた美女の最終回答は、ノーでした。

私がまだ30代半ばだった大昔のお話です。


よしむら・しんすけ会員 1933年生まれ 55年中日新聞社入社 ニューヨーク ワシントン特派員を経て 東京本社(東京新聞)外報部長 編集局次長 論説主幹 編集担当などを歴任 2003年夏 常務取締役事業担当で退任 現在 相談役事業顧問
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