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「時」が止まった南極再訪(柴田 鉄治)2006年4月

  センチメンタル・ジャーニーという言葉がある。辞書を引くと「むかし懐かしい場所への旅」とあるが、新聞記者なら誰でも「むかしの取材現場」へ旅してみたいという思いがあるだろう。
  私の場合は、最も訪ねてみたい取材現場が、たまたま南極だったということである。私は、1965年11月から66年4月まで、第7次南極観測隊に同行して、報道記者として南極へ行った。朝日新聞社に入社して7年目、ちょうど30歳のときである。
  日本の南極観測が朝日新聞社の提唱で始まったときには、私はまだ大学生だった。敗戦から10年、ようやく廃墟から立ち直った日本国民は、南極観測のニュースを熱狂的に歓迎したが、私もその一人で、観測船「宗谷」が氷に閉じ込められたと聞いて心配し、ソ連の「オビ号」の助けられたと知ってホッとし、無人の昭和基地でカラフト犬のタロ、ジロが生きていたというニュースに胸を熱くしたものである。

  そのころから「いつか南極へ行ってみたい」と考えていたが、それが、新聞記者になって実現するとは思ってもいなかった。私が同行した7次隊は、「宗谷」の老朽化で観測事業が中断したあと、2代目の「ふじ」を新造して再開にこぎつけた節目の年であり、国民の熱気もまだ冷めてはいなかった時である。
  この時の取材で、南極は私の心に深く「突き刺さった」。ペンギン、氷山、白夜といった南極の大自然に感動しただけでなく、帰途に突然訪ねたソ連基地、ベルギー基地との心温まる交流で、南極がパスポートもビザも要らない「国境も軍事基地もない、人類の理想を実現した地上で唯一の地」であることを実感したのである。

  それから40年。新聞社もカルチャーセンターもやめ、大学教員の生活も終わった70歳という人生の区切り目を迎えたとき、ふと、もう一度、南極に行ってみたいと思った。
  私のセンチメンタル・ジャーニーというだけでなく、南極観測がちょうど50周年を迎え、科学ジャーナリストとしてこれからの50年のあり方を考えるため、再度、現場に立ってみたいとの思いもあった。そこで、47次隊への同行願いを出したところ、幸運にも認められたというわけである。

  私の友人たちは「壮挙か暴挙か」「年寄りの冷や水、いや、氷水?」などとひやかし半分に暖かく激励してくれたが、私も「現地で倒れないこと」を唯一の目標とし、40年前に南極でかぶっていた赤い帽子を持って、勇躍、南極へ向かった。

  観測船「しらせ」には、47次観測隊員らと一緒にオーストラリアのフリーマントル港から乗船した。「しらせ」は「ふじ」より2倍も大きいとはいえ、形も全く相似形、船体の色も同じ、そのうえ「総員起こし」「手洗濯を許す」といった船内アナウンスまで同じなので、乗船直後からしばしば40年前に戻ったかのような錯覚にとらわれた。
 
  船が暴風圏を越え、氷山と流氷の浮かぶ氷海に入ったとき、その感覚は頂点に達し、私の中で突然「時」が止まった。40年前の自分と今の自分と、どちらがどちらなのか分からなくなったのだ。
  いま氷海の美しさに見とれ、「とうとうやってきたか」と感慨にふけっている70歳の私と、40年前、初めての氷海に胸をときめかせ、言葉も出なかった30歳の私が渾然一体になり、その間の40年間の歳月がどこかに消えてしまったかのような、それは不思議な感覚だった。
  たとえば、ペンギンとの再会もそうだ。氷海の中で船が停泊すると、さっそくペンギンたちが見物にやってきたが、最初は「昔会ったペンギンの曾孫の曾孫くらいかな」とか「40年前に比べると、数が少ない。好奇心が減ったのかな」とか冷静に観察していた私も、昔と変わらぬ愛嬌たっぷりのペンギンの仕草を見ているうちに、たちまち30歳の私に戻って、「あのときのように、またペンギン見学者席といった立て札を立てて一緒に遊びたいなあ」と思うのである。

  時が止まるという感覚は、久しぶりに故郷に戻ったときなど、センチメンタル・ジャーニーには、多かれ少なかれあるものだろうが、南極という強烈な舞台が強烈に時を止めてしまうのだろうか。途中の人生が消えてしまうような思いを味わったのは、初めてのことだった。

  この感覚は、昭和基地へ行っても基本的に変わらなかった。ジャーナリストとしての私は、40年間の変化を捜し求めて「昭和基地は様変わり」と記事にも書いたのだが、心の中では基地のただずまいも夏の間の建設作業のやり方も「ちっとも変わっていないなあ」と思うことのほうが多かったのだ。

  もちろん今回の南極行で、40年前にはなかった新しい体験もした。昭和基地の対岸に新設されたS17観測拠点で初の日独共同航空機観測をつぶさに見たこと、日本隊の野外観測の舞台である大陸の露岩地帯を歩き回ったこと、帰途の船の中で初めて幻想的なオーロラを見たことなど、みんな素敵な思い出である。
 
  これからの私の余生は、南極の大自然の素晴らしさや「国境もなければ軍事基地もない、平和の枠組みとしての南極」の意義を次代を担う若い人たちに伝えていくことに費やしたい。そのことをあらためて心に誓った「南極・古希の旅」だった。(2006年4月記)
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