2016年02月15日 10:30 〜 11:30 10階ホール
アビール・オーデ パレスチナ国家経済相 会見

会見メモ

パレスチナのアビール・オーデ国家経済相が会見し、記者の質問に答えた。
司会 土生修一 日本記者クラブ事務局長


会見リポート

パレスチナ自治区ジェニンの20年

船津 靖 (共同通信社編集・論説委員)

パレスチナ自治政府のマフムード・アッバス議長と来日したアビール・オーデ経済相の会見を聞きながら、パレスチナ解放機構(PLO)の闘士ハナン・アシュラウィ女史を思い出した。中東和平交渉が動いていた1990年代、数々の国際会議や交渉の場で、軍事占領をやめない口達者なイスラエル側を向こうに回し、かつてアイルランド出身の文豪ジェームズ・ジョイスを研究した高度な英語力を駆使して、激しく渡り合った。

 

人権意識が強く、独裁的な指導者だったアラファトPLO議長にも異論を述べる勇気と個性をもち、パレスチナでは少数派のキリスト教徒、しかも女性でヘビースモーカーとくれば波風も立ったが、1996年のパレスチナ評議会議員選挙で圧勝し、その後請われて自治政府の高等教育相を務めたりした。

 

オーデ経済相の経歴にビルゼイト大学卒とある。ヨルダン川西岸の中心都市ラマラ郊外の大学で、インティファーダ(反イスラエル闘争)では学生運動の拠点だった。ラマラはアシュラウィ女史の地元でもある。会見後、オーデ経済相に「出身は?」と聞いてみた。

 

「ラマラです」「宗教を聞いてもいいですか?」「クリスチャンです」「ハナン・アシュラウィと何か関係は?」「ビルゼイト大学で恩師でした」「ひょっとしてアシュラウィさんの親族ですか?」「そうです」「彼女は今もタバコを吸っていますか?」「いえ、禁煙しました」

 

アシュラウィ女史の家を訪れ、取材したことがある。一族はラマラの名門で、権勢や財力でというより有徳の知識人が多いことで知られた。フランスの作家ジャン・ジュネの『恋する虜』に登場する極めて聡明にして絶対平和主義者の闘士ハナン・ミハイルは、レバノン沖で爆死した女史のいとこだ。

 

会見の大半は、日本政府支援による西岸エリコの工業団地についてだったが、わたしは砂漠の小さなオアシスの町エリコより、オーデ経済相が口にした西岸の人口密集地ジェニン周辺の工業団地計画に関心をもった。パレスチナのいわば「背骨」の北端に位置し、イスラエルとの境界に近接する都市だ。イスラエルに工業団地の認可を求めるさまざまな交渉が20年も続き、昨年12月ようやくフェンスの建設が始まったという。「ジェニンは戦略的要衝にあり、イスラム武装勢力の活動が盛んなことで有名だった。(イスラエル軍による2002年4月の)住民虐殺疑惑の際、緒方貞子さんらが率いる国連調査団が入るのを(イスラエルの)シャロン政権が拒否した。現在の治安情勢はどうか、過激派「イスラム国」(IS)の活動の兆候はないか?」などと質問した。

 

オーデ経済相は、IS活動の兆候はなく、自治政府は暴力には断固反対している、と強調した。ジェニン工業団地認可の対イスラエル交渉を最後まで仲介したのはドイツだそうだ。ディベロッパーとしてトルコの名前が上がったのも興味深かった。

 

ジェニンは「先行自治区」と呼ばれたエリコとガザ地区に続き、西岸の主要都市で初めてパレスチナ自治区になった。中心部はパレスチナ側が治安と行政の双方の権限をもつ建前のいわゆる「A地域」である。イスラエルのラビン首相がユダヤ教極右に暗殺された9日後の1995年11月13日未明、ペレス新首相の決断でイスラエル軍が撤退した。わたしは現地で取材した。早朝にジェニン入りしたパレスチナ警察部隊を出迎える住民が街頭を埋めた。人々の歓喜する様子が目に焼き付いている。

 

あれから20年。イスラエル、パレスチナ双方の反和平派、過激派の暗殺や軍事力行使、自爆テロは、和平交渉の破壊に極めて有効だった。世論は「右」に振れやすい。ナショナリズムはたきつけやすく、譲歩や妥協を説くのは難しい。

 

あのころ、和平の「機会の窓」(ウィンドウ・オブ・オポチュニティ)という表現をよく聞いた。当時、その言葉の意味、重みをわたしはよくわかっていなかった。暴力や憎しみの悪循環に終止符を打つ和平の機会はなかなかめぐって来ず、まれに訪れる貴重なその機会を逸すると、「次の機会」を手にするのは至難だということを、20年の歳月が示した。


ゲスト / Guest

  • アビール・オーデ / Abeer Odeh

    パレスチナ / Palestine

    国家経済相 / Minister of National Economy

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