取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
アフガン戦争 従軍に抱く/正義の虚構 意味なき犠牲(岡野 直)2025年11月
「正義の戦争(just war)のために、あなたは死んだ」
従軍牧師が、アフガニスタンの北大西洋条約機構(NATO)基地で、こう祈りを捧げた。死んだのはカナダ兵。国旗にくるまれた棺が、基地のコンクリートの地面に横たわる。私は、タリバーンの反転攻勢が本格化した2007年、NATOの一員のカナダ軍に従軍し、こうした葬送の場面を何度か取材し、戦闘も見たうえで、原稿を書いた。
カナダ軍取材 カンダハルへ
アフガン戦争は、2001年の「9・11」を契機に始まり、テロとの戦い、という「正義」を掲げていた。それが虚構性をはらみ、兵士を無意味に死なせているのではないか、との疑問を私は抱いた。そう感じるに至った取材の経緯を、書いてみたい。
私が取材したカナダの場合、兵士たちが戦う大義は、アフガニスタンの治安安定と復興支援だった。米軍が主導する対テロ戦のイメージが強いアフガン戦争だが、それと並行して、戦後の安定の確保を任務とするISAF(国際治安支援部隊)をNATOは設立した。カナダはISAFの一員として、南部のカンダハル州の復興を担当。巨大なカンダハル空港を改造したカンダハル基地(NATO基地)を拠点に、軍人と、警察官や外務省員などの文民が共同し、農場の整備、司法警察の立ち上げといった民生支援を行おうとしていた。アフガンの政情が安定すれば、テロリズムの復活も防げるということで、ISAFは、「治安維持の支援」をうたう国連安保理決議に基づき設立された。しかし当時、タリバーンの攻撃が激化し、カナダ軍は常に、戦いを余儀なくされた。カナダも復興・治安の面の支援は困難となり、対テロの軍事作戦に重点を移しつつあった。
私は、1990年代と2000年代の計7年、防衛記者を経験した。自衛隊の参加するPKOや、ルワンダ難民救援などを取材したが、アフガンは死者の数がはるかに多かった。軍事を取材してきた者として、現場が見たくなった。
「1記者、5タリバーン」
こうした戦場取材では、従軍のルールの厳しさが問題となってきたが、比較的ゆるかった。カンダハル基地に到着した最初の日、私はカナダ軍の広報将校と1対1で面会し、ブリーフを受けた。「戦闘中の部隊の位置を書かない」といったルールのほか、「兵士が死んだ場合に、カナダにいる家族に軍からの死亡通知が届くまで絶対記事にするな。エンバーゴをかける」と言われた。親がマスコミで子の戦死を知ってしまうのはまずいという理由だった。また、基地の外に出ることは、自由にできるが、「1記者、イコール、5タリバーン」と警告された。タリバーンは記者の誘拐を狙うようになっており、その場合、解放には、タリバーンの捕虜を多数、交換で引き渡すことになる、と広報将校は説明した。
基地外に出るのは、二つのケースがあった。一つは、出撃する部隊にエンベッド方式(軍用車に乗り込むなど、軍人と同じ扱いを受けながら取材する手法)により、戦いの場まで行くケース。エンベッドは「(軍部隊に)埋め込む」という意味の言葉。もう一つは、記者が自主的に町村に行き、アフガンの住民を取材するケースだった。誘拐の危険があるのは後者だった。
広報将校はブリーフを終えると、「記者クラブ」へ案内してくれた。基地内に巨大なカマボコ型のテントがあり、カナダの主要メディアの記者たち十数人が、机を構えていた。カナダ人でないのは私一人だった。私はあるツテをたどって、受け入れられた。
イラク戦争取材で日本の記者が社命でイラクから退去したことがあった。カナダ人記者たちは、エンベッドして最前線に行くかどうかを含め、基本的に記者個人の裁量にまかされていた。大手テレビ局の記者は「自分には幼い子どもがいるから、基地の外へは行かない」と言っていた。基地内では、戦死した兵士の儀式が行われるため、外に出ていると、その映像を特オチする可能性もあると、彼は恐れてもいた。
戦死の3分の2は地雷
私は二回、エンベッドした。いずれも装甲車に乗った。そこに空き席がある時のみ、前線への従軍が認められたが、希望者が多い時は抽選が行われた。
エンベッド取材のうちの一回は、12両の輸送コンボイで、先頭の装甲車が地雷を踏み、操縦席の兵士が死んだ。私の乗った車両は、その6両後ろだった。私は兵士の死に気づかぬまま、外に出ると、兵士らが道路沿いに展開し、警戒態勢を取っていた。相手は姿を消していた。カナダの輸送路は彼らに把握されており、路上に地雷が設置されていた。ある者が道路沿いの丘の上にいて、カナダ部隊の通過を現認。地雷の上に来た瞬間を、携帯で別の者に伝え、その者が遠隔操作で地雷を爆破させた、と後になって聞いた。
カナダ軍は159人が、2014年の撤退までに戦死したが、3分の2は、地雷や即席爆弾(IED)だった。部下を失った下士官は「本当にこういうことが起きるのですね」と語り、ショックを受けた様子だった。
防ぎようのない攻撃方法で、この戦争の残酷さや、犠牲の無意味さを感じた。戦争の大義の柱であるはずの「復興」も、これでは実施が難しそうだった。
コンボイで私と同じ装甲車に乗ったカナダ主要紙のT記者はその後、通訳を雇い、民間車で基地の外に出て、地元民の取材をした。私は他の記者に「無謀だ。ここカンダハルはタリバーンの大拠点で、その勢力に誘拐されかねない」と話した。それが本人に伝わり、T記者は「臆病な日本人記者が来ている」という、からかうような、ユーモラスな文体の記事を書き、私に見せた。曳光弾が飛び交う戦闘をすぐ間近で撮影する、勇敢なテレビ記者もいたし、一方で、「記者クラブ」から出ない人もいた。これにつき、本社からの指示は、彼らは受けていない、とのことだった。
私はその後、輸送部隊に同行し、カナダ軍の前進基地へ向かった。移動は夜中で、車内は真っ暗だった。明け方、前進基地に着くと、そこは小高い丘の巨大なくぼ地の中だった。お椀のように周りがせりあがり、その底に兵士のバラックが並ぶ。タリバーンの神学校があったが、カナダ軍が奪取。神学校は壊してしまった。その時の戦闘の際、神学生ら数百人を殺したと、軍将校から聞いた。
前進基地を設けた理由は、その場所が、タリバーンの最高指導者オマール師の生まれ故郷で、タリバーン勢力が強かったからだった。彼らの掃討作戦を行いつつ、警察官のための交番を建設するなど、復興支援もしようとしていた。
「普通の人々を殺している」
一方、掃討作戦では、民間人が巻き添えになっていた。交戦の際に、流れ弾で死んだ村人が複数いる、と私は聞いた。戦闘部隊指揮官の中佐にインタビューし、その点を問いただすと、中佐は「私たちのしていることは間違っている。殺しているのは普通の人々だからです」と率直に語った。民間人の巻き添えのほかに、タリバーンの構成員や支援者も実際は地元民である、という意味だった。戦争の大義の虚構性は、現場の軍人が誰より感じていた。
ドローン兵器の出現で、前線取材は難しくなった。報道の自由のあるウクライナの場合、前線に行く記者が今もいる。戦争の現実は、戦場で聞かないと、分からない。それを伝えるジャーナリズムの存在意義はAIが普及しても、消滅しないだろう。
▼おかの・ただし
1960年生まれ 85年朝日新聞社入社 佐賀支局 西部社会部 東京社会部 外報部 シンガポール特派員 名古屋社会部デスクなど 自衛隊 在日米軍 沖縄基地問題を担当 東ティモール独立 ルワンダの大量虐殺などの紛争地取材に当たる 著書に『自衛隊―知られざる変容』(朝日新聞社 共著) 『戦時下のウクライナを歩く』(光文社新書)
