取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
ホスピス視察日に「9・11」/死の恐怖 人生を変えた日々(尾﨑 雄)2025年9月
2001年9月16日、乗機が成田空港に着陸すると、私たちは歓声を上げ、拍手して躍り上がった。「私たち」とはアメリカ東海岸ホスピス視察団一行である。世界を震撼させた「9・11同時多発テロ」勃発時、ニューヨークの現場近くに居合わせ、ツインタワーが炎上、爆発、崩壊するシーンを目の当たりにし、「死」の恐怖を何度か味わった。祖国に生還した喜びがほとばしったのである。
ホスピスケアをテーマに
私は1942年6月17日に生まれた。帝国海軍がミッドウェー海戦で米海軍に完敗した10日後である。この敗北から日本は悲惨な結末へと転がり落ちていく。「昭和100年」のうち83年を生きてこれた私が書き残すべきことの一つは「9・11」である。
定年を待たず57歳で日経を辞めた。生活の問題はさておき、思う存分したいことができる。自らの死と向き合いつつ緩慢な死を待つ人びとに寄り添い、最期まで支える営みがホスピス・ケアである。当時の日本ではそれを行う場は緩和ケア病棟とされていたが、本来はその人が望むなら老人ホームだろうが、自宅だろうが場所を問わぬ営みである。
発祥地とされるアイルランドを振り出しにイギリス、ドイツを訪れたのは00年9月。その1年後の米国視察だった。米国ホスピス取材は現役時代の在宅ホスピス行脚に続き2度目だった。その途上で、思いもかけず、2700人を超える人命が一瞬に奪われる凄惨な事件を目の当たりにする。
視察団の顔ぶれはホスピス・緩和ケア関係者、臨床医、看護師、大学や高校の教員およびジャーナリストら28人。団長は「死生学」と「死への準備教育」を日本にもたらしたアルフォンス・デーケン上智大教授(故人)だった。
ツインタワー崩落を目撃
現地時間9月11日の朝、宿舎のグランド・ハイアット・ホテルをバスで発つと、間もなく黒煙を上げるツインタワーが見えた。現地事情に通じた看護師は「ただの火事ではない」と直感する。視察先の病院に着くと、テロの負傷者を受け入れる準備で大わらわ。視察を受け入れるどころではない。異変に気付いたバスの運転手は姿を消した。一行は地下鉄に乗らず徒歩でホテルを目指す。オウム真理教の地下鉄サリン事件の記憶がよみがえったからである。
一行は数グループに分かれ、グループ間の連携を携帯でとりながら、しばらく歩くと、断末魔のツインタワーが崩落した。凄まじい粉塵が舞い上がり、それは世界の終末のようだった。路上に目をやると、小柄な男性がひざまずき、何か叫んでいた。英語ではない。私には第三次世界大戦の始まりを告げる予言に聴こえた。そして、世界はかつてと様相を異にするテロと戦争の時代に突入し、いまも現在進行形で続いている。
ホテルにもう一歩で異変が起きた。地下鉄の出入り口から群衆が飛び出し、「爆弾だ!」と叫び、道路いっぱいに広がって突進してくる。ビルの陰に身を寄せ、間一髪でやり過ごした。巻き込まれたら無事では済まなかっただろう。
やっとホテルにたどり着くと仲間の女性医師が話しかけてきた。「生物化学兵器がまかれたら、生きて帰れませんね」。私は別のリスクに怯えていた。事件はアメリカ人にパールハーバーとカミカゼ攻撃への復讐心を呼び覚まし、矛先は日本人に向けられるかもしれない。敵の友は敵。テロリストが日本人を狙ってもおかしくない。日米安保条約は軍事同盟であることを理屈でなく身体で知った。欧州のテレビはカミカゼとの共通点を指摘していたという。
「爆弾だ! 館外に退避せよ」
「ジャップ」へのリンチは杞憂に終わったけれど、「死」の恐怖と隣り合わせだった。一行は毎日定時、ホテル28階の一室に集まった。テロの犠牲者に祈りを捧げ、今後の身の振り方を話し合っているとき館内放送が。「爆弾が仕掛けられた。館外に退避せよ!」
非常階段には、身動きが緩慢な体格の良いメイドさんが前をふさぎ、駆け下りることができない。28階から地上まで歩いて下りた時間は永遠のようだった。燃え盛るツインタワーから脱出を試みて果たせなかった人たちの心中はいかばかりだったか。結局、爆発はなかったが、その夜からホテルのドアをロックせず、ズボンとシャツを着たまま寝た。
添乗員はより安全なホテルを求めて電話をかけまくったが、全て満室。一刻でも早く日本に発つ航空便をつかまえようと一睡もしなかった。それがプロとはいえ、彼女には今でも感謝している。私は日経ニューヨーク総局を訪ねると、一行が滞在する地域はセカンド・アタックのリスクが大きいと教えられ、危機管理に通じた看護師らと対策を練った。私は、万一の際は総局に駆け込めるよう話をつけ、看護師は地元の友人の助けを求めて避難の段取りをつけた。視察中止で浮いた時間をどう活用するかはひとそれぞれ。一部の女性たちはショッピングをするなど〝ニューヨークの休日〟を賢く使っていた。
新たな人生を拓く医師も
人生を一変したひとも。高橋昭彦医師(40、当時)は翌年の5月、施設の勤務医を辞め、栃木県宇都宮市で開業した。「生きて日本に帰ったからには自分が思っていることをやる」と。実は9月8日、一行はワシントンDCのホスピスにいた。マザー・テレサが貧しいHIV患者のためにつくった施設である。目を見張る環境と運営に感動した高橋医師は、自分はこんなことをしたくとも、お金も人手もないと訴えると、案内役のシスターが答えた。「あなたの目の前のことをやりなさい。お金と協力者が現れます」
その3日後、世界を震撼させる大事件に遭遇する。この一撃が彼の背中を押した。帰国後ただちに開業を決意。困難を一つ一つ乗り越えて在宅医療の新分野に挑戦。とりわけ遅れていた医療的ケア児のための制度改革に貢献する。その足取りと成果は新著『うりずんの風に吹かれて― 重い病気や障害、医療的ケアのある子どもとともに』(クリエイツかもがわ)に詳しい。
私自身は視察団という運命共同体の一員か、その顛末を客観的に報ずべきジャーナリストか、葛藤する暇もなく旅の仲間のひとりになった。現役の記者魂が残っていたらどちらに転んでいただろうか。いずれにしても「人は、いつどこで、どのようにして死ぬかわからない」という死生観が固まった。「テロ」体験から得た教訓だ。
米国本土の中枢部が史上初の攻撃をうけた大状況のなかで、日本から来たホスピス視察団の一人ひとりがどう振る舞ったか。その詳細は省く。鳥の眼と虫の目を合わせ持って事象を伝える働きがジャーナリズムだとすれば、SNSとAIが世界を翻弄するようになっても、ジャーナリズムは変わらない。「9・11」で得たもう一つの教訓である。
テレビはテロ報道一色。第二のアメリカ国歌とされるアメイジング・グレイスを終日流していた。市内のクルマはトラックもバイクも星条旗を翻していた。有事にあって一体となるアメリカ。当時のアメリカは、私の目にはそう映った。80年前、日本が彼の国に負けたのは生産力の差だけではなかった。
▼おざき・たけし
1965年日本経済新聞社入社 札幌支社 流通経済部記者 婦人家庭部編集委員 日経ウーマン編集長 日経事業出版社取締役 仙台白百合女子大学教授を経て フリーランス 家族介護を拒んで自殺した老女の遺書を読み「終末期ケア」をライフワークに さわやか福祉財団などの理事・評議員を勤める 著書に『人間らしく死にたい』(日本経済新聞社)