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米国の保守思想家を追って/ミシガンの小さな村への旅(会田 弘継)2025年8月

 あれから30年以上たった。米国思想史研究を続ける今の自分をつくり出すとは、当時は思ってもみなかった。その後、幾度もその小さな村を訪れることになったが、それも予想もしなかった。メコスタ村。5大湖に突き出た巨大な半島である米国ミシガン州の森林の深奥部に収まる寒村だ。当時も今も人口400人ほどである。

 冷戦の終結は壮大なドラマを引き起こした。「ベルリンの壁」の崩壊、ソ連邦の終焉……父ブッシュ、ゴルバチョフの米ソ両首脳が冷戦終結を宣言した地中海マルタ島での会談は現地で取材した。だが、振り返ってみると、筆者にとって冷戦終結の最大のドラマは、このミシガン深奥部の小さな村への旅だった。1991年の夏だ。訪ねて行ったのは、晩年のラッセル・カーク(1918―94年)。当時の日本ではほとんど知られていない米国の保守思想家だった。

 

冷戦が終結 米思想史に関心

 発端はこうだ。現象としての冷戦の終結は日々目にしていた。ワシントンに駐在していた当時、日々の取材の最大テーマは、STARTと呼ばれた戦略核兵器削減交渉だった。米国をしのぐ数の核兵器を配備するソ連が次々譲歩し、衛星国からも撤退していく。いったい何が起きているのか。向こうは強靱な思想(マルクス・レーニン主義)に支えられてきた。こちら側には、それをしのぐどんな思想体系があるというのか―。

 その頃、国務省政策立案局にいた同世代(52年生まれ)のフランシス・フクヤマは「歴史の終わりか?」という論考を発表し、当時起きていたことの「意味」を世界に説明しようとした。世界がその論考に衝撃を受けた。彼とは長い交友を持つことになった。やはり同世代で、フクヤマ同様に「政治任命」でレーガン・ブッシュ両政権に加わっていた友人から、1冊の絶版になっていた本を渡された。ジョージ・ナッシュ著『1945年以降の米国における保守思想運動』(76年刊、未訳)だった。

 これも、のちに長い交友を持つことになる碩学ナッシュ(45年生まれ)のハーバード大での長大な博士論文である。多忙な仕事の合間に、必死になって読んだ。そこに繰り広げられる未知の歴史に圧倒された。レーガン政権誕生(81年)という政治的結実をもたらす思想のドラマを、膨大なテキストと数多くの知識人たちとの書簡のやりとり、直接対話に基づいて描き切る。

 

人生を変えた自宅への誘い

 その中に現れた知識人の中で、思索の内容から、もっとも引かれた一人がカークだ。著書を探して読み出した。まだ70代前半で健在らしい。インターネットもEメールもない時代である。本人に会ってみたいと思ったが、どこの大学にも属さない在野の著作家で(ナッシュもそうであった)、らちが明かない。そうこうしているうちに、カークがワシントンのシンクタンクに講演に来ると知った。91年春のことだ。仕事の合間に駆けつけ、講演が終わった後に記者の特権で取材と称してアプローチした。聞きたいことがヤマほどあって、話が終わらない。カークにはミシガン州の自宅に戻る飛行機の便の予定がある。同伴の夫人が出発を促しながら、「うちへいつでもいらっしゃい。何日でも、話したいだけ話しにきなさい」と、自宅住所と電話番号を渡してくれた。初対面なのに信じられない申し出だった。今振り返れば、人生を変えた瞬間だったと思う。

 もちろん、通信社のワシントン駐在「下っ端」記者が、当時の日本では誰も知らないような在野の保守思想家を訪ねて、はるかミシガンへ行くことなど許されるわけもない。ちょうど湾岸戦争が終わったころで、冷戦後世界は激しく動いていた。ただ、まもなく3年の任期を終えて、夏に東京へ帰任することが決まっていたので、帰任時に夏休みをとって訪ねようと決めた。

 その7月、冷戦終結時の激動の3年を過ごしたワシントンの街に別れを告げ、妻と娘3人を10年落ちのボロ車に乗せて、道路地図帳を頼りにメコスタ村に向かった。「部屋はいくらでもあるから、何日でも泊まっていきなさい」。カーク夫妻の申し出だった。

 

日本との不思議なつながり

 ほぼ1週間滞在した。何もない寒村で、カークや他の各地からの訪問者ら(学者や学生)と食事をともにしたり、対話したりした。日本には来たこともないカークだが、不思議なつながりを持っていた。著書にものぞき見ることができたが、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の愛読者であり、思想(史)家としての著作の一方で、米国中西部や南部に残る怪奇譚の伝統を維持する作家でもあった。

 その時は、こちらが無知で名前を聞いてもピンと来なかったが、若い頃からの親しい友人の一人が、イェール大学で日本文学を教えているエドウィン・マクレラン(1925―2009)だという。のちにマクレランと会って、さらに思いがけないカークと日本との縁を見つけた。生前のマクレランは、英語圏世界で最高の漱石研究家と見なされていた。イェール大学で彼の下で学んだ中には、文芸評論家、柄谷行人や作家、水村美苗らがいる。文芸評論家の江藤淳は、60年代はじめの在米研究時にマクレランと出会い、生涯の友となった。漱石つながりである。99年の自死直前に書いた『妻と私』の書き出しは江藤・マクレラン両夫妻の会食だ。

 英語圏で流布し読まれる英訳の漱石『こころ』はマクレランがシカゴ大学博士課程にいた時に、恩師でのちのノーベル経済学賞受賞者F・A・ハイエクに読ませるために訳したものだった。英国人であるマクレランをハイエクの下での思想史研究に送り込んだのはカークであり、英訳『こころ』を出版したのは、カークの主著『保守主義の精神』(53年)を出版した新興出版社であった。

 こうしたことすべては、91年のメコスタ村訪問当時には知らなかった。それから、長い年月をかけて、本業の合間に少しずつ解明し、論壇誌などに発表し、今日に至るまで著書に収めたりすることになった。

 戦後米国の保守思想史に大きな足跡を残したカークの生涯については、いくつもの評伝が書かれており、カーク自身が死を前に書き残していた自伝もある。没後20年以上たった2015年には研究者による600㌻近い、浩瀚な決定版評伝が出版されているが、マクレランは登場しない。カークの自伝のある時期には交友の記録が頻繁に登場するにもかかわらず、そうなのである。評伝と自伝は、それぞれの物語を語っているようなところがある。どちらが正しいとか誤りとかいう話ではない。歴史叙述というのは難しいものだと思う。

 

原爆投下と「進歩」への疑念

 ただ、両者を通じて見えるのは、20世紀を生きたこの米国の代表的保守思想家に、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下は大きな衝撃を与え、近代文明の行方、「進歩」という考え方に強い疑念を抱かせたということだ。その前段には第2次大戦期の日系人収容への怒りもあった。

 そのことと、戦後、漱石学者となるマクレランと知り合い『こころ』の英訳出版を手助けする経緯には、偶然であるようで、どこか連関がありそうに思っている。漱石をはじめて読んだハイエクの反応はほぼ解明したが、カークの反応がまだよく分からない。この秋もメコスタ村を訪問し、カークの遺族と会い、資料をのぞくことを計画している。

 

あいだ・ひろつぐ▼1976年共同通信社入社 ワシントン支局長 論説委員長などを経て 2015年から24年まで青山学院大学教授 関西大学客員教授などを歴任 著書に『追跡・アメリカの思想家たち』『破綻するアメリカ』『それでもなぜ、トランプは支持されるのか』など 訳書にF・フクヤマ『政治の起源』 R・カーク『保守主義の精神』など

 

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