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包囲下のサラエボに1カ月/言わずにおいた「あのこと」(伊藤 芳明)2025年7月

 サラエボは坂の街だ。1984年冬季五輪の会場になった2千㍍級の5つの山に囲まれ、山岳地帯からの急勾配が、街の中央を東から西に流れるミリャツカ川まで落ち込む。その斜面にへばりつくように住宅が建ち並んでいる。

ミリャツカ川をはさんで対岸の丘陵地帯からは一切遮るものがなく、住宅群が一望のもとに見渡せる。停戦が発効している間も、昼間は対岸に陣取るセルビア人武装勢力のスナイパーに狙い撃ちにされ、夜間は気まぐれな砲弾が撃ち込まれて、住民たちを恐怖に陥れている。

 95年2月。クロアチアの首都ザグレブから国連の輸送機に乗せてもらい、このボスニア・ヘルツェゴビナの首都に入った。サラエボの街は旧ユーゴスラビア内戦で、92年以来、セルビア人武装勢力に包囲され、住民30万人は3年近く孤立状態を強いられていた。

 国連輸送機が運び込む食糧などのコンテナが、住民にとって命の綱だ。コンテナを積み込んだ輸送機の貨物室の壁際に40席ほどのベンチが据え付けられ、サラエボ駐在の外交官、国連関係者、我々ジャーナリストが便乗させてもらうのである。

 

高台の2階 東南の空探し

 救援物資を陸送する英国のコンボイに同乗するなどして、サラエボはそれまで2度訪れたが、滞在は1日か2日だ。今回は1カ月ほど滞在して住民と時間を共有してみたい。できれば日記形式で報告できないか、と考えていた。

 そのためにカギとなるのは安定的な通信手段の確保である。91年の湾岸戦争取材では、CNNなどテレビ局が持ち込んだ巨大なパラボナアンテナ「ディッシュ」がバグダッドのホテルの庭に林立し、東京への送稿はその衛星電話のお世話になった。

 この数年で衛星電話は飛躍的に進化し、折り畳みパネル型のアンテナを含めても大型のアタッシェケース大で収まり、重量20㌔、一人で持ち運びができるまでに小型化していた。それを駐在先のスイス・ジュネーブでレンタルし、持ち込んだのだ。

 衛星電話はインド洋上空に浮かぶ通信衛星経由で日本と通話する。このためパネル型アンテナは通信衛星に向け、サラエボからだと東南の空に向けてセットする必要がある。地元紙に掲載された貸間情報に片っ端から電話をかけ、高台にあるアパートの2階で、南向きにベランダがある貸し部屋を見つけた。

 ニザおばさん(58)とその夫(67)が住み、前年に33歳で戦死した長男の6畳間ほどのベッド付きの部屋を貸してくれるという。南に開けたベランダからの衛星電話の通信状況は良好で、1カ月300ドイツ・マルク(約1万8000円)で借りることにした。国際機関で働く外国人が下宿する相場が200~300ドイツ・マルクだったから、妥当な額だろう。その日から、サラエボの東端に広がる旧市街から急勾配を10分ほど登ったこのアパートを拠点に、街を歩き回る生活を始めた。

 

日本人と知って冷たい反応

 とりあえず負傷者を取材しようと病院を回り始めて、医師たちが日本人とわかった途端、一様に非協力的な態度に変わるのに面食らった。当時、明石康氏が旧ユーゴ問題担当の国連事務総長特別代表として、各民族間の仲介に当たっていた。我々には中立・公正と見える明石氏の仲介工作も、サラエボの住民から見るとセルビア側に加担していると映り、反日感情を呼び起こしているらしいと、徐々に見えてきた。

 また20代の若者たちと食事した時は、たわいもないジョークを連発し、外出禁止令の午後10時ギリギリまで笑い転げる姿に驚かされた。しばらくして「精神に異常をきたした人が街中に異様に多いことの裏返しでは」と思い至った。就寝中に砲撃でやられる。歩いていて狙撃される。サラエボにいる限り、このリスクから逃れることはできない。ジョークの連発は、閉塞状態に置かれた精神が、緊張を一瞬でも忘れるための知恵ではないのか? 笑う行為で精神の均衡を保ち、正常に踏みとどまるための自己防衛策なのだ、と感じた。

 

シートの薄明りに後ろ姿が

 サラエボで過ごす時間は、外から見ていたのではわからない、こんな驚きの連続だった。そんな生活の中で、「あのこと」は起こった。

 その日は朝から体が重く、少し熱っぽかった。昼間歩き回り、疲れて眠りに落ちても、砲撃の音で眠りを破られる。そんな日々が3週間近く続き、疲れがたまってきたのかもしれない。取材を切り上げて昼過ぎにアパートに戻り、部屋のスーツケースのカギを開けて貴重品だけ放り込み、ベッドに倒れ込んだ。

 物音で目が覚めた。窓ガラスの代用に張った、「UNHCR」(国連難民高等弁務官事務所)と印刷されたビニールシートを通した薄明りで、後ろ姿が見えた。部屋の主人だとすぐにわかった。彼は鍵のかかっていないスーツケースから貴重品の入ったバッグを取り出そうとしていた。

 「ノー!」。大声で叫ぶと、まさか帰宅してベッドにもぐりこんでいるとは思わなかったのだろう。振り向いた驚がくの表情は、30年が経過した今も鮮明に覚えている。バツが悪そうにバッグを戻すと、無言で部屋を出て行った。

 これまで外出時には必ずスーツケースを施錠し、貴重品も確認していたから、盗まれたことはないはずだ。実直そうな主人がなぜ? 疑問は尽きなかったが、彼がバッグの中のドイツ・マルクに手を出そうとしたのは明らかだった。

 旧ユーゴ内戦の行方は混とんとし、サラエボ包囲はいつ終わるか予測がつかない。頼りにしていた長男を失い、老境に差し掛かりつつある夫婦の先行きに不安を覚え、少しでも外貨を手に入れたい、と思ったとしても非難できるだろうか? 我ながら甘いな、と思いながらも、追及する気持ちにはなれなかった。

 夕刊に連載した「サラエボ日記」はウィーン支局の後輩が継続して書き続けてくれることになった。後輩との引き継ぎの際、現金管理に注意するようにとは伝えたが、「あのこと」についてはついに触れなかった。

 弱い立場の人たちに寄り添う、と我々はよく言う。ソマリア、ウガンダなどアフリカの飢餓、イラク、パレスチナ、リビアなど中東の紛争、そして今回の旧ユーゴ内戦…。80年代から90年代にかけ、現場を歩き回るたびに感じたことがある。我々は取材が終われば、いつでもその地を離れることができる。サラエボでも国連の輸送機に飛び乗りさえすれば1時間足らずでザグレブに脱出でき、翌日にはジュネーブの日常に戻ることも可能だ。

 しかしニザおばさん夫妻には、包囲下のアパートで暮らし続ける以外の選択肢はない。「寄り添う」と言っても、彼らとの間には埋めようのない隔たりが横たわっている。現場の状況が悲惨であればあるほど、この隔たりは広く、重い。

 

「おふくろの味」と抱擁

 「あのこと」以降、主人は明らかに顔を合わせるのを避けていた。サラエボを去る朝、ニザおばさんが銀紙で包んだ小さな塊を持って部屋にきた。薄く延ばしたパイ生地の中に、チーズや卵を詰めて焼き上げた「シルニッツァ」と呼ばれるボスニア版おふくろの味だ。

 「途中でお腹がすくといけないから。チーズを奮発したからね」。こう言ってから、息子にするように私を抱きしめた。小刻みに揺れる白髪を見て、「あのこと」を言わなくてよかったな、と改めて思った。

 

いとう・よしあき▼1974年毎日新聞社入社 大阪社会部を経て カイロ ジュネーブ ワシントンに駐在 イラン・イラク戦争 湾岸戦争 パレスチナ紛争 旧ユーゴ内戦など紛争地取材に当たる 編集局長 主筆を歴任し 2017年退社 14年~17年日本記者クラブ理事長 著書に『ボスニアで起きたこと』(岩波書店)など

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