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岩手日報「忘れない あの人を思う」/3493人の犠牲者紹介/遺族の思い、最後の一人まで(菅川 将史 岩手日報社大船渡支局長)2025年3月

 2011年3月11日に発生した東日本大震災から14年。震災による岩手県の死者は4674人、関連死472人、行方不明者1107人の計6253人に上る。あの日突然、かけがえのない人を失った方々の気持ちに区切りはない。残された遺族の思いや心の葛藤を伝えるため、私たちは震災報道を継続している。

 震災の犠牲者を追悼し、惨禍の記憶を後世に伝承するため、岩手日報社では12年3月11日から「忘れない あの人を思う」の掲載を続けてきた。「忘れない」には生前の仕事や趣味、被災時の状況など、短い記事の中に幅広い情報を盛り込むようにしている。多くの遺族の協力を得て、これまでに計3493人の方々を紹介してきた。

 ただ、「忘れない」に掲載された犠牲者は6割に満たない。数字の多寡を問うつもりはないが「まだこれだけ多くの犠牲者が取材できていないのか」と痛感している。24年4月、7年ぶりの被災地勤務となり、改めて当時の記事を見返して「今を生きる遺族に思いを語ってもらおう」と決意。掲載されていなかった3人の方々を紙面で取り上げた。

 

■ありのままの言葉を文字に

 遺族取材では常に心がけていることがある。取材相手のありのままの言葉を文字にし、内容を記者の「創作物」としないことだ。震災から年月が経過する中、当時の記憶がおぼろげとなっている人も数多い。大学生や高校生の若い世代であれば、なおさらだ。

 陸前高田市出身で両親が津波で犠牲になり、震災孤児となった仙台市の大学生を取材後に「そんなに大げさに書かないでくださいね。正直、当時は生活していくことに必死で記憶はあまりないし、今は普通に生活を送っていますから」と声をかけられた。深く印象に残った。

 「津波から命からがら逃げた」「一緒にいたのになぜ助けられなかったのか。今も後悔している」などの声もあり、震災で人生が大きく変わった住民は数知れない。他方、災害発生時の記憶が薄れ、震災前と同じように生活を送っている人がいるのも事実だ。

 

■毎月の自治会会議に参加

 16年からの2年間も被災地での勤務を経験したが、当時と比較すると復興後のまちは大きく様変わりした。都心の高層マンションを思わせる災害公営住宅は、玄関のチャイムを鳴らすことさえはばかられる。敷居が低く、早々と地域住民に溶け込むことができた震災直後の仮設住宅とは、取材環境も一変した。

 政府は25年度末を第2期復興・創生期間と位置づけている一方、被災者の実際の暮らしはどうなっているのか。日頃の取材では分からない疑問を解決すべく、大船渡市の災害公営住宅で毎月1回開かれる自治会の会議に参加している。

 会議では▽共益費のあり方▽清掃活動の参加率▽役員の人選―など多岐にわたる議題を論議。一般入居も含めて138世帯が生活する市内最大規模の住宅ということもあり、入居者の悩みは尽きない。今もなお、被災地には数多くの課題が山積している。

 新人記者が入社後、まず初めに指導されるのは、事故や事件などの人定を正確に把握し、事実を伝えること。震災報道や「忘れない」の取材はまさにその究極だ。遺族の最後の一人まで追い続け、報道し続けることが地方紙の使命であり、被災地に寄り添うことになると信じている。

 

すがかわ・まさし▼2009年入社 販売部 報道部 釜石支局 岩手支局などを経て 24年4月より現職

 

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