取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
「女性初」づくしの記者時代/おじさん週刊誌表紙に男性(山田 道子)2025年2月
「書いた話 書かなかった話」の原稿の依頼を受けて、当欄の過去記事を読んでみた。私には武勇伝はなく「何をやってきたのだろう」と省みるとともに感じた。「男性が多い」。そこで、1986年の男女雇用機会均等法施行の前年に毎日新聞に入社した「女性記者」として振り返ってみた。近年でこそ性差別やジェンダーについて意識的に発信しているけれど、元々はそんな意識はあまりなかった。
女性に夜回りさせないで
「女性のほうが優秀だから、入社試験の点数で上から採用すると女性ばっかりになってしまう……」と人事担当者が褒めるつもりであっけらかんと話す時代。記者職の採用は80人超で女性は3人。女性記者の深夜勤が法律上認められておらず、女性記者が多いと男性記者の宿直勤務の負担が増すという理屈はあった。実際には「記者は男性の仕事」だが、女性も採用しないと世間的にまずいという意識だったと推察する。
最初の配属先は埼玉県の浦和支局(現さいたま支局)。毎日新聞では支局初の女性記者。県警幹部が県警キャップに「女性記者を警察官の官舎に夜回りをさせないでほしい」と言ってきたそうだ。ある時、担当の警察署の刑事課に行くと「女性記者の取材お断り」の張り紙。他社の女性記者が長居をするからのようだった。彼女も「初」で、ネタをとらねばと必死だったのだろう。先輩記者が県警に抗議してくれた。今なら、スマホで写真を撮って発信すれば一発でアウトだ。
深夜勤ができないため、女性記者は東京本社管内だと横浜、千葉、浦和など人員が多い支局に配属されていた。結果、回転が速くなる。男性記者が5年間、支局で警察や行政取材の修業を積んで本社にあがるところ、女性記者は1、2年。男性基準の新聞社のキャリアパスと異なることが、今も経営層に女性幹部が少ない一因だと考える。
毎日初の「セクハラ」記事
私も、警察担当1年、浦和市役所担当1年で、東京本社社会部に異動となった。そんな時に、出会ったのが「セクシュアル・ハラスメント(性的いやがらせ)」である。アメリカでは1986年、連邦最高裁判決が昇進などの不利益がなくても性的な不快感を与えて雇用環境を悪化させるセクシュアル・ハラスメントは性差別であり、会社には雇用者責任が問われることを認めた。日本では同年、男女雇用機会均等法が施行され、職場に女性は増え始めていたが、なんとなく働きにくさを感じている。私も然り。女性団体が『ストッピング・セクシュアル・ハラスメント』というハンドブックを翻訳・刊行するなどの動きが生まれた。89年には、福岡市の出版社に勤める女性が、上司に「遊び好き」などの言われのない悪評を言いふらされ人格・尊厳を著しく損なわれたと裁判を起こす。日本初の「セクシュアル・ハラスメント」裁判だ。そのような動きを取材して原稿を書いた。89年9月30日の夕刊トップ。毎日新聞では初の「セクハラ」記事となった。
苦労したのは、「セクシュアル・ハラスメント」の文字数が多いこと。多用すると書きたいことが入らなくなる。しかし、絶対「セクハラ」と略したくなかった。当時、おじさん週刊誌もさかんに「セクハラ」を取り上げていた。論調は「〝セクハラ〟なるものが日本に上陸して、あれもだめ、これもだめで俺たちは働きにくくなる。気をつけろ」と揶揄するものが多かった。「セクハラ」と略すのは、それを助長するようで強い抵抗感があった。「セクシャル・ハラスメント」は89年の新語・流行語大賞に選ばれた。「セクハラ」ではない。今、「○○ハラ」がたくさん生まれている。「ハラスメント」という認識で、従来、当たり前、仕方ないとされてきたことがそうではないと可視化されるのはよい。一方で、「○○ハラ」と略すと軽くなるのではと懸念してしまう。
ホモソーシャルな政治部
90年に政治部に異動となる。政治家、取材する記者全体がめちゃくちゃホモソーシャルな世界。同時期に政治部に配属となった佐藤千矢子氏(現毎日新聞論説委員)の著書『オッサンの壁』(講談社現代新書)に詳しい。私は壁を崩す意識はなく、ホモソーシャルな世界に入ろうとモグラ叩きのように仕事をしていた。
91年、海部俊樹首相(当時)の東南アジア諸国歴訪に女性記者が5人同行することになった。私もその一人。新米記者に経験を積ませるとの判断だったのだろう。これに対して、首相の首席秘書官が「女性記者を同行させるとは海部をバカにしてるのか」とメディアの政治部長に抗議してきた。政治部長は取り合わなかった。2017年、セクハラや性暴力を告発する「#MeToo」運動が世界中に広がり、女性たちがリアルタイムで「おかしい」と声をあげ始めた。あの時、首席秘書官の女性差別発言を書いていれば少しは変わっていたかもとの思いがよぎった。
政治家との飲み会の時、女性記者に声がかかることもあった。今、中居正広氏とフジテレビとの問題をみるに、「男性中心」の壁、崩れていないと感じる。
2008年、サンデー毎日の編集長となる。その前に新聞でマガジン的な紙面を追求した夕刊編集部で、同誌の元編集長らに鍛えられてはいた。「女性初の総合週刊誌編集長」。雑誌の売り上げはインターネットの広がりと反比例して1997年からみるみる減っていた。「困った時の女性頼み」は否定できない。何より、新聞社の中で斜陽週刊誌の編集長はもはや男性が喉から手が出るほどのポストではなくなっていたことが大きかったのではと思う。
手につけたことの一つが表紙。おじさん週刊誌の表紙写真は女性芸能人が定番だった。女性だけが「見られる対象」であるのはおかしいと考えた。実は、女性読者対象の「anan」(マガジンハウス)や「AERA」(朝日新聞)が、男性韓流スターをバンバン登場させ売り上げを伸ばしていた。そこで、男性芸能人も使うことで、女性読者を増やそうと目論んだのだ。爆発的ではないが、当たった。ある男性歌手のファンは3部買うといわれた。自分用と保存用とプレゼント用。「表紙買い」の人が、中も読んでくれればいいと自分を納得させていた。
ジャニーズ表紙に今疑問
中でも売れるのがジャニーズのタレントだった。SMAPや嵐の5人に揃ってもらうのはスケジュール調整が難しく、お金もかかる。一人でもありがたかった。グループのメンバーは個別で活動することも多いので、揃った集合写真はファンにとっては「お宝」と聞いた。編集長を辞めた後も、サンデー毎日の表紙にジャニーズが増え、疎い私は「みんな同じに見える」と眺めていた。
そんな時、BBCが2023年、旧ジャニーズ事務所の創業者、故ジャニー喜多川氏による性加害を取り上げ、被害者が実名で告発した。長年沈黙してきた日本のメディアは大きな批判を浴びた。「売れる」とジャニーズを表紙に登場させ始めた私もズドンときた。
週刊文春などの報道は読んでいたし、裁判でジャニー氏の「セクハラ行為の真実性」が認定されたことも記憶にあった。しかし、表紙に起用する時、問題意識も忖度も全くなかった。女性タレントへの性加害だったら違ったかと想像したが、変わらなかったと思う。何を学ぶべきなのか、メディアのあり方を悶々と考え続けている。
やまだ・みちこ▼1985年毎日新聞社入社 浦和支局(現さいたま支局) 社会部 政治部 夕刊編集部 川崎支局長などを経て 2008年10月〜11年9月サンデー毎日編集長 夕刊編集部長 世論調査室長 紙面審査委員 編集委員を務め 19年早期退社