取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
プラザ合意の日本側攻防/為替に振り回された日々(滝田 洋一)2024年12月
最近は円安、かつては円高。為替に右往左往する日本は、為替に振り回された自らの記者生活とも重なる。日米独英仏の先進5カ国(G5)がドル高是正でスクラムを組んだ1985年9月22日のプラザ合意。為替担当になったばかりの記者は、事前に大舞台の到来など知る由もない。
ニューヨーク・プラザホテルでのG5合意。東京外国為替市場で円相場は、直前の9月20日の終値1㌦=242円ちょうどから、秋分の日をはさんだ9月24日には一時228円台まで急騰した。大台替わりの円高だが、為替市場ではドル買いの力が根強かった。
東京市場「Fedが出た」
石油など輸入業者が値ごろ感から、ドル買いの注文を入れたからである。円相場が230円台に押し戻されてはいけない。政府・日銀が必死に円買い・ドル売り介入に出たが、この日の終値は230円10銭。
そうこうするうち同年10月7日には、東京市場で聞きなれないネームが。「Fedが出た」。Fedとは米連邦準備理事会(FRB)傘下のニューヨーク連銀のこと。各国当局は自国市場で介入するのが大前提なのに、米国の通貨当局が東京市場でドル売り・マルク買いの介入に動いたのだ。耳打ちしてくれたのは、大手米銀の伝説の為替ディーラーだ。
日銀クラブ詰めだったので、確認に走った。日銀で介入の第一線に立っていたのは、当時の外国局為替課である。大熊義之課長はあっさりと事実を認めた。米当局、東京に現ると明かすことによって、介入効果を高めるアナウンスメント効果を狙ったのだろう。
プラザ合意で決めたドル高是正を確実なものにするため、次々と新手の為替介入が繰り出された。先ほどの米当局の介入は、東京市場で当時のドイツマルクを用いた「他通貨・他市場介入」である。24時間介入体制を誇示したといってもよい。
「お土産話を」と大場財務官
日本側のプラザ合意の立役者は大場智満財務官である。ニューヨークのG5には竹下登蔵相と澄田智日銀総裁が出席したが、竹下蔵相が発言したのは2回くらい。もっぱら大場財務官が日本代表として発言していた。西独連銀のペール総裁は蔵相でもなく、中央銀行総裁でもない財務官がなぜ、と訝しんだ様子だった。
大場氏は茶目っ気たっぷりの方で、市場の猛者たちの扱いを心得ていた。「せっかくお集まりいただいたのだからお土産話をしないと」。プラザ合意の後、金融機関の市場担当者を前にこう語りかけた。何だろう?
「プラザ合意ではドルに対して他の先進国通貨を10%強くすることを決めました。円は特別なのでさらに5%強くすることに」。この大場財務官の話の後、大熊課長は続けた。「私の名前は大熊。ドルに対してはもっとベア(弱気)です」
15%強の円高なら1㌦=200円あまりとなる勘定。ドルにもっと弱気となると、円は200円をも突破しかねない。携帯電話などない時代のこと。話が終わるや否や、「これは本気だ」と受け止めた市場担当者はわれ先に公衆電話に殺到した。
G5会議の秘密合意をそれとなくささやく形で、マーケットの相場観を円高方向に誘導する。これもまた為替市場をめぐる情報戦であった。
プラザ合意をめぐる各国のやり取りについては、船橋洋一氏の名著『通貨烈烈』がある。マーケット記者として、自分なりに舞台裏を知りたいと思っていたが、思わぬ形でその希望がかなった。駐米日本大使館の公使として、大場財務官と米財務省の窓口となっていた内海孚氏(後に財務官)から、米国側とのやり取りの記録(応接禄)の提供を受けたのである。
応接禄は拙著『日米通貨交渉』でも紹介したが、内海氏によれば、米国のマルフォード財務次官補は実際の介入戦略について、詳しく論じている。①ドルの上昇をストップするような介入。②ドルが強くなったときはそれに抵抗して、弱くなったときはそれを後押しするような介入。③ドルを弱くするようなバイアスのかかった介入――といった具合である。
具体的にはプラザ合意後の当初3日程度の間に、総額40億㌦程度の介入を行ってドル安に誘導し、その後しばらく様子をみて、ドル高への戻し局面で再度大量介入を行ってはどうか。そんな考えが共有されたと、近藤健彦副財務官(当時)はいう。
ルーブル? ワシントン?
ドル高是正を狙ったプラザ合意に幕が引かれた時期については、見解が分かれるところである。当面の水準での為替相場安定で一致した87年2月22日のルーブル合意を挙げる向きもあろう。ルーブル宮殿で開かれたG7会議での為替安定合意である。
だが米独の対立からこの合意は短命に終わり、87年10月19日のブラックマンデー(米国発の世界同時株安)に見舞われたことは周知の通り。と言いたいところだが、当時まだ生まれていなかった記者たちが、今や取材の第一線の主役である。
もう少し話にお付き合いいただくなら、プラザ合意によるドル高是正の路線に最終的に幕が引かれたのは、95年4月25日にワシントンで開かれたG7会議である。このときの共同声明で、ドル相場の秩序ある反転がうたわれた。反転は「リバーサル」である。
この声明にもかかわらず、市場は反応薄。同年4月19日の東京市場で円相場が1㌦=80円を戦後初めて突破し、79円75銭の最高値をつけた後も、円の先高観が支配的だった。日米間には貿易摩擦があり、クリントン政権は円高・ドル安路線との思い込みが強かったのだ。
実は同年1月に就任したルービン財務長官が「強いドルは米国の国益」と語るなど、米政府の方針は大きく転換していた。だが、マーケットは慣性の法則に支配される。
市場参加者の間では「1㌦=50円の到来」がまことしやかに語られた。しかし当時の大蔵省の介入担当者は「円高は明らかにオーバーシュート(行き過ぎ)」と感じていた。ほかでもない。1㌦=50円で日本の名目GDP(国内総生産)をドル換算すると、日米のGDPが逆転してしまうからだ。
こうした判断から、政府・日銀はあえて介入を手控える作戦にでた。円売り介入を実施したのは同年4月18日までで、4月19日は介入していない。市場の円買い・ドル売りが出尽くすのを待ったのである。
「ミスター円」の七夕介入
満を持して円売り介入の反転攻勢に出たのは、ご存知の通り(とまた言ってしまった)、やがてミスター円の異名をとる榊原英資・大蔵省国際金融局長(後に財務官)である。日米が同時に利下げしたタイミングをとらえて、日米協調の円売り・ドル買い介入に打って出たのだ。7月7日の七夕介入である。
介入が効果を発揮するのは、金融政策と連動した協調介入。そんなセオリーを地で行く展開だ。為替ディーラーの集まりで「夏休みをとられるなら携帯電話を忘れずに」と介入をほのめかすなど、榊原国金局長は文字通りトリックスターだった。ミスター円のひと言で、為替相場が大きく動くのを目の当たりにして、メディアは彼の一挙手一投足を追った。
人様のことばかり言っていられない。円高是正がだいぶ進んだ96年11月のこと。「僕らはこれ以上、円安誘導しようなんて考えていないよ」。局長室での取材中に榊原氏がもらしたひと言を新聞のコラムで紹介したところ、その発言に円相場はたちまち2円以上も急騰した。大きく値が飛ぶ為替のボードをみて、口先介入の威力に感じ入ったものだ。
記者は取材先との程よい距離が大切。その通りではあるが、マーケットのうねりを目にすると、つい前のめりになってしまう。同じことは2008年9月のリーマン・ショックのニューヨークでも経験したが、紙幅が尽きた。それはまたの機会に。
たきた・よういち▼1981年日本経済新聞社入社 金融部 チューリヒ支局 経済部編集委員 米州総局編集委員 特任編集員など 4月までテレビ東京「ワールドビジネスサテライト」解説キャスターも務めた 現在 名古屋外国語大学特任教授 リーマン・ショックに伴う世界金融危機の報道で2008年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞 著書に『日米通貨交渉』『世界経済大乱』『世界経済 チキンゲームの罠』など