取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
金大中事件 10年後の特報/日本の公安 拉致前に察知(金平 茂紀)2024年11月
1973年8月に起きた金大中事件。戦後公安事件の中でも、その態様の粗暴さが突出していた事件だ。韓国の諜報機関KCIA(韓国中央情報部)要員が、東京滞在中の野党政治家トップ=金大中氏をホテルから拉致・監禁の上、船に乗せて関西から密出国、韓国ソウルに連れ戻されたという事件だった。ソウルでの金氏は負傷していて憔悴しきっていた。拉致の舞台は東京のホテル・グランドパレス。まるでスパイ小説のようなミステリアスな事件の全体像については、すでに多くの諸先輩が取材成果を世に問うている。国境の存在を全く無視したかのような大胆な犯行は、今で言えばイスラエルのモサド並みだが、朴正熙政権下での出来事で、これほど露骨な主権侵害ではあったものの、処理を誤れば、日韓関係は大変な局面に立ち至ることは必至の情勢だった。金大中氏を招いたのは、自民党の宇都宮徳馬代議士らで、当時は自民党の一部にも、韓国の民主化運動への共鳴がまだあった時代である。
◆公安担当記者から始まる
記者のイロハはサツ回りから。そんな超古くさい考えが当たり前のような時代に、筆者はTBSの社会部記者から報道の仕事を始めた。80年代初頭の3年間にわたって警視庁の記者クラブに在籍した。幸か不幸か、筆者の担当は警備・公安。よくもまあ筆者のような人間を警備・公安担当などに据えたものだと思う。当時のTBSはそういう気まぐれな人事をやる余裕があった。だが仕事をやらされる立場から言えばたまったもんじゃない。率直に記せば、取材先で冷ややかな視線を感じることが多かった。「お前さん、顔に反権力って書いてあるよ」とか酒席でからかわれたこともあった。そんな中で、庁内をぐるぐる廊下トンビを繰り返したり、昔の資料を読み返したり、当事者たちと直接会うという基本作業を日々続けていた。
当時の警視庁が摘発した公安事件では、80年の自衛隊スパイ事件(宮永事件)があった。陸上自衛隊の陸将補がソ連(当時はまだ存在していた)の諜報組織GRU(ソ連軍参謀本部情報総局。ロシア連邦にまだ現存)所属の駐日大使館員(コズロフ大佐)に、自衛隊内の資料を渡していたとして逮捕された。捜査にあたったのは警視庁公安部外事1課で、当時の課長は大森義夫氏(のちの内閣情報調査室長)だった。NHKが夜7時のニュースでトップニュースで報じ、当時の公安担当記者が全速力ダッシュで外事1課長室になだれ込んでいった光景を今でも覚えている。公安当局がNHKにリークして書かせたことをその後、大森課長から直接聞いた。
◆「これ見てみろよ」と写真
当時、外事警察には外事2課というもうひとつの部署があって、こちらは朝鮮半島や中国の動向を担当していた。その外事2課の管理官の一人(以下Vと記す)が、なぜか親子ほどの年齢差があるのだが、「お前はいやに熱心だな」と声をかけてくれるようになった。警視庁公安部内で管理官と言えば、ノンキャリのトップにあたり、実力のある叩き上げの人材が配されていた(当時は)。Vも典型的な職人タイプの管理官だった。一方でVはどこか人間味というか、自分のプライベートな部分まであえてさらけ出すような性格で、よく居酒屋などで会って話を聴いた。
ある日、Vの席を回って昔話をしていたら、おもむろに机の引き出しをあけて「これを見てみろよ」と言って、大きな茶封筒に入ったモノクロ写真を見せてくれた。Vは「これ、何だか分かるか?」と笑みを浮かべながら尋ねてきた。写真は鮮明とは言い難いものの、走行中の車両を後ろから撮影したもので、四つ切りサイズで数枚あった。Vは写真を見せながら以下のような説明をした。
◆「何かやる、確信していた」
「君らは、事件は金東雲一等書記官の指紋が現場から見つかってKCIAの犯行と分かったという発表を鵜呑みにしているんだろうが、実は私らは、事前に何かをやるんじゃないかと確信していた。これは金大中を尾行している連中をわれわれが尾行して撮ったんだ。韓国大使館の諜報部門の連中が金大中をあまりにも露骨に追尾して奇妙な動きをしているので、『やめろ』と警告していたんだ。主権侵害になるからな。そうしたら目の前でやっちゃった」
Vは写真のほかに捜査報告書のコピー(青焼きのゼロックス)を示して、「ここに決済のサインがあるだろ。これ、三井さんのだ」と示した。そこには滞日中の金大中氏をめぐる実に詳細な行動情報が記されていた。何時何分にどこで誰と会っていたか等。外事2課は彼の動向をつぶさに見ていた。三井さんとは事件発生当時の警視庁公安部長・三井脩氏である。
筆者は驚いた。あの事件は警視庁の地道な捜査が実って、ホテルの壁から金東雲一等書記官の指紋が検出され、KCIAの犯行と判明、彼らが犯行の実行犯と断定する形で発表されたのだが、そうではなかったのか。事件後、警視庁から出頭を求められた金書記官は、外交特権を行使して韓国にすでに帰国していた。
この事件の関連では、筆者は2002年12月に、ドナルド・グレッグ元駐韓大使に米ニューヨークで直接会って話を聴いた。金大中氏がKCIAによって殺害され、日本海に遺体が投棄されるという最悪シナリオを避けるべく、ヘリコプターが緊急出動し、日本海上空から金大中氏を乗せた船に対して「殺害をやめよ」と警告した事実を認めた。米国内のグレッグ氏ら朝鮮半島の専門家らは、独裁的な朴正熙政権の長期化を望んでいなかった。その対抗馬として金大中氏を有形無形に支援していたことは明らかだった。
朴正熙はその後、身内によって暗殺され(79年)、韓国は全斗煥ら何人かの軍人出身大統領らを経て、98年に金大中が大統領に選ばれる。さらには朴正熙の娘の朴槿恵が13年には初の女性大統領に選ばれるなど、朝鮮半島の歴史のダイナミズムを感じさせられる。
83年8月2日、TBS系『ニュースコープ』で筆者らは次のようなニュースを特報として報じた。〈10年前に起きた金大中事件の捜査本部が昨日解散されましたが、日本の公安当局は事件発生前に金大中氏の拉致計画を知っていた事実が明るみに出ました〉。他社からは完全に無視されたが、それも当然で、ニュースソースにたどり着くことがほぼ不可能だったからだ。放送するにあたって、三井警察庁長官の定例記者会見で担当記者に質問してもらったが、三井長官は絶句して言葉を発せず否定も肯定もしなかった。V管理官はもう20年以上前に亡くなられた。筆者は02年に金大中氏(当時大統領)にお会いすることができた。金大中氏はセンシティブな部分はすべて日本語で話した。
◆二分法レンズへの懸念
こんな大昔の駆け出し記者時代のエピソードを記憶の抽斗から引っぱり出してきて書こうと思ったのには理由がある。ミイラ取りがミイラになるの言葉通り、公安情報、諜報分野の秘密情報は、それを取材している記者をある種の自家中毒に陥らせることがある。このミイラ取り病にいったん罹患してしまうと、その記者、その人物はなかなかその考え方の枠組みから出られなくなってしまう。敵/味方、スパイ/味方、活動家/味方、悪者/正義、非同盟国/同盟国といった二分法のレンズを通してしかものごとが見えなくなる。記者だけでなく、政治家や学者のなかにもよくみられる。この傾向が近年、この国をおかしくしているのではないかという思いが強くある。杞憂に終わればよいのだが。
かねひら・しげのり▼1977年TBS入社 モスクワ支局長 ワシントン支局長 「筑紫哲也NEWS23」編集長 報道局長などを歴任 2010年から24年まで「報道特集」キャスター 04年度ボーン・上田記念国際記者賞 22年度外国特派員協会「報道の自由賞」受賞 早稲田大学大学院客員教授 沖縄国際大学講師などを経て 現在 フリーランス・ジャーナリスト 日本ペンクラブ言論表現委員長 著書に『沖縄ワジワジー通信』『筑紫哲也「NEWS23」とその時代』など