取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
地方の縁生きた人事情報/当たって砕けたOS係争(堀 義男)2024年10月
入社の際に出身大学総長筆の推薦状を提出した武勇伝を本欄バックナンバーで目にし、わがことを思い出した。母校は就職関連の推薦状を1社しか出さない決まりで、既に放送局向けにもらっていた。時事通信社も必要だと知り、人事部に泣きつくと「代わるものを提出」となった。
学部長直筆の推薦状を考え、学部長ゼミ幹事を務める学友に仲介を頼んだところ、「某日何時に学部長室に顔を出すように」との連絡をもらった。建て替え前の母校3号館の部屋を緊張しながら訪れると、先生は「久しぶりに面白い学生が来た」と笑顔で迎え入れ、丁寧に墨をすってから毛筆で推薦状をしたためてくださった。
その際「両方受かったらどうするの」との質問を受け、両社とも落ちると覚悟していたので「もちろん時事に入ります」と気楽に答えた。奇跡的に両社の最終面接に進めたが、時間がほぼ重なっていた。後から連絡をもらった放送局に「時事との最終面接があるので時間を変更してほしい」と頼んだのは、先生との約束も多少影響していたのかもしれない。
学部長先生をはじめ人様の「情け」に助けられた入社時のいきさつを肝に銘じ、人とのご縁だけは大事にしてきたつもりだ。それが稀にだが取材面で生きた経験がある。
◆引っ越し準備は「理事交代」
地方勤務時代に懇意となった日銀パーソンとは、ともに東京勤務になってもたまに会っていた。東京2年目の20歳代後半に金融担当に就いて東京・浅草で会食していると、ある局長級幹部が執務室の引っ越し準備をしており、「理事就任に間違いない」と話す。当時は金融政策担当の局長が大本命視されていただけに、本当なら「金融村」では面白い話だ。
相手が席を外した際に店の赤電話から記者クラブに連絡し、幸い居合わせたキャップに内容を小声で伝えた。受け止めてくれたキャップが翌日に確証を得て配信。意外性が高かったせいか反響は大きかった。地方勤務時代のご縁がほんのわずかでも役立ったのが嬉しかった。
地方時代のご縁では、第二地方銀行の前身の相互銀行が組成する全国相互銀行協会会長職を長年務めていた四島司氏の交代人事取材にも生きた。協会副会長を務める地元相銀社長が上京するたびにお会いするよう努め、最後は滞在先ホテルのロビーで取材。会長交代と後任を内々に「正式」に決めた当日夜に配信できた。
30歳代前半の商社担当時代も人様に助けてもらった。ネット情報などない時代で、共産圏での商社活動の面白さに惹かれ、われながらよく取材に歩いた。ある大手商社パーソンへの何度目かの取材で、「(ライバル商社の)あそこは中国西域で原油事業を進めようとしている」と話し、いくばくかのヒントを挙げてくれた。名前の出た商社のエネルギー担当専務とは面談したばかりで、その際のメモを改めて見直すと、中国への取り組みにも前向きだった。「タリム盆地でか?」と自分で添え書きもしていたように記憶する。
◆沈黙後「丁寧に書いてくれ」
「当たり」と思い、当該商社の信頼していた広報部員の協力や関係方面の取材から、「トルファン油田での中国企業の生産事業に融資する見返りに産出原油を引き取る」との事業枠組みと、融資額、原油引き取り量、相手先中国企業名などの概要が分かり、最終的に専務宅を訪ねた。
「このあいだ会ったばかりだろう」というインターフォン越しの声には「不機嫌」の3文字が書いてある。気後れしそうになるのを何とか持ちこたえて、その時点で把握していた内容を伝え、確認を求めた。ずいぶん長い沈黙だったように覚えているが、せいぜい2秒程度だったのだろう。「国にとっても大事な事業だ。丁寧に書いてくれ」と答えてくれた。
翌朝には当該商社広報に夜回りの報告が入る上、深夜とはいえない時間帯でもあるので自動車電話をしてみると、信頼していた部員が応じた。「丁寧に書いてくれ」との部分を強調しつつ専務とのやり取りを説明し、翌日に改めて取材に全面協力してもらって午後遅くに配信した。首都圏では翌日朝刊で2紙が経済面トップで配信記事を掲載するなどそこそこ反響もあった。ヒントをくれたライバル商社パーソン、ごまかさずに対応いただいた当該商社専務、取材面を含め協力してくれた広報部員とのご縁の賜物だったと思っている。
◆経済紙も「貴重なベタ記事」
東京に戻り新人1年目の当初は電機業界担当として苦しんだ。重要なアポイントはなかなか入らず困り果てた揚げ句、商社担当の大先輩記者に頼み込んで、大手商社の中国担当を数人紹介してもらった。狙いは電機各社の対中戦略で、当時は商社の地域担当はざっくばらんに話をしてくれるいい時代だった。
ある商社の担当者が中国沿海部の大都市近郊で、リニア半導体の後工程工場を建設しようとしている大手総合電機の話をしてくれた。といっても生産規模や投資額など詳細まではつかめない。通産省(当時)に当たる知恵はまだなく、当該電機の広報を訪ねるしかできなかった。
「詳しく話を聞きたいから担当部門に大至急会わせてほしい」と頼んだが、電機各社は当時、広報が主要な情報をほぼ管理しており、「聞いたことがない」とガセネタ扱いに近かった。それでも気のいい若手が「担当部門に聞いておくので夕方に改めて連絡して」と言ってくれた。直接出直してみると「中国案件の詳細を伝える。ただ当社も準備が必要になるので、配信するのは明日以降に願いたい」と頼まれた。「外電を含め先んじられたときは見合う話を提供する」とかなり情けない展開の末、応じてしまった。今でも報道という「みち」から外れていたと反省しきりだ。
記事の反響は3~4紙でせいぜい2~3段だったが、原稿を担当したデスクは「経済紙でも貴重なベタ記事だった」と言ってくれた。商社担当の大先輩記者や、担当部局につないでくれた当該総合電機の若手広報パーソンのおかげだと感謝している。
◆怒声浴び、取材機会も失う
ただ人とのご縁を大事にすると言っても、最後は「当たって砕けろ」。そしてほとんどが本当に砕け散った。中でも今でも飛び切り苦い思い出が、IBMと大型コンピューターの基本ソフト(OS)を巡り係争中だった大手電機の専務が米国に出張したと耳にした際の行動だ。
帰国する日曜日の夜、自宅近所で待ち構えた。車から降りてきた専務は薄明りの下でも疲労感が体中から放出されていたのが分かった。それでも自宅までの細い道を歩く際に質問を続けたが、ずっと黙殺。最後に「帰ってくれ、帰れ」と怒声を浴びた。改めて考えても巨人IBMと対峙したばかりの心身の疲れに思いをはせず、さらに何らかの答えを引き出すカードを持ち合わせていない最悪の状態での暴走だった。この結果、専務とは昼間の取材機会も途切れた。
現役時代をたまに思い出すと、ほかにも布団を頭からかぶって「ア~」と叫びたくなることが山ほどある。最後の現場となった日銀キャップ時代もメガバンク誕生に絡み、約3カ月も緊張感で胃がひっくり返ったままだったのを思い出す。あるメガ統合はそれなりにつかみながらも自身のキャプテンシー不足で競合社に先行された。これに奮起した中堅記者陣によって別のメガ合併を抜き返す第1案件から第2案件まで本当にしんどかった。これを含め今ではあらゆる現場経験が懐かしい思い出に転じつつある。これも加齢のなせるわざなのだろう。
ほり・よしお▼1981年時事通信社入社 経済部で大蔵省(現財務省) 通産省(現経済産業省) 日銀 財界 商社などを担当 ロンドン特派員 経済部・産業部次長 産業部長 編集局専任局長 解説委員などを務め 2021年退社