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土井たか子さん 苦闘と光/「山の動く日」 いまだ来ず(宮田 謙一)2024年9月

 政治の世界は、圧倒的な男性優位社会だ。女性がいないわけではないのだが、いまだに好奇の目で見られたり、妙にちやほやされたり、さげすまれたり……。まだまだ活躍には大きな制約が伴うと言っていいだろう。そんな女性議員の草分けの一人、土井たか子さんを担当した。「ジェンダー」というカタカナ語もおそらくなかった時代の、苦闘と栄光を記録に残しておきたい。

 「本院は、土井たか子くんを内閣総理大臣に指名することに決しました」。土屋義彦参院議長の声が響いた。今からちょうど35年前の1989年8月、参院本会議。女性が国会で首相に指名されたのは空前絶後。後にも先にも、土井さんしかいない。

 リクルート事件で政界が大揺れし、竹下首相が退陣。直後の参院選で自民党が大敗し、参議院で与野党の勢力が逆転したため、土井首班指名が実現したのだった。ただ、衆院は自民党優位だったので、衆院の議決優先の原則に従い、海部俊樹首相が誕生した。

 

◆女性解放への思いを込めて

 

 そのときの土井さんは、野党第一党、社会党の委員長だった。国会に議席を持つ政党のトップに女性がついたのは憲政史上初と言われていた。土井さんはのちに、これまた女性初の衆院議長に就任する。これほどの「初づくし」の女性政治家なのに、いまの人たちにほとんど知られていないのは残念なことだ。

 土井さんは議長時代、それまで議員を呼ぶ際の慣例だった「君」づけを改め、「さん」と呼んだことで話題となった。本稿でもそれにならい、「土井さん」と呼ばせていただく。

 土井さんと言えば、さまざまなキャッチフレーズがある。なかでも有名なのは「山の動く日きたる」だろう。与謝野晶子の詩の一節だ。「かく云えど、人これを信ぜじ。山はしばらく眠りしのみ」と続き、(中略)「人よ、ああ唯だこれを信ぜよ、すべて眠りし女、今ぞ目覚めて動くなる」とくる。

 女性解放への熱い思いを歌い上げたもので、今よんでも胸がたかなる人は多かろう。土井委員長時代、東京・三宅坂にあった社会党本部の委員長室に書家による「山の動く日」の額が掲げられていた。

 選挙で社会党が予想外の大勝利をした時に、土井さんが口にしたこともあって、「山の動く日」はいつしか、55年体制という、自民一党支配の岩盤が崩れる日と重ね合わせられるようになった。若いころからこの詩を愛唱してきたという土井さんには、本意でなかったかもしれない。土井社会党の躍進とあまりにぴたりとはまるこの言葉に、マスコミが悪乗りした面は否めない。ジェンダーギャップのお寒い状況は、今もあまり変わらない。

 

◆きっぷの良さと歯切れ良さ

 

 「やるっきゃない」は流行語になった。固辞するのを拝み倒され、社会党委員長を引き受けた時の記者会見で、飛び出した。この歯切れの良さが、どこか男っぽくて、きっぷの良さを感じさせる土井さんのキャラクターと合致した。

 ご本人は、あまり好んではいなかった。「そんなに何回も言ったことはないのよ」。晩年、回想録を出版する時にお手伝いした際、当然、書名は『やるっきゃない』になるだろうと思っていたら、ご本人は『せいいっぱい』を主張して譲らない。それじゃあ売れない、という出版社側からの注文はついに受け入れなかった。半生を振り返った時の、彼女の率直な思いだったのだろう。強気だけの人では決してなかった。

 もうひとつ、「ダメなものはダメ」。手を変え、品を変えて大型間接税の導入を画策する政府自民党に対して、きっぱりとした物言いが大増税に反発する世論に受けた。これも本人はあまり気に入らなかった。

 

◆ブームの底流 女性の怨念

 

 こうしたキャッチフレーズが独り歩きしていくのは、初の女性党首というタレント性をマスコミが放っておかなかったからだ。「クイズダービー」や「世界まるごとハウマッチ」といったクイズ番組にまで出演して、世界一周旅行を勝ち取ったりもした。こちらはご本人も納得の宣伝戦略だった。

 しかし、土井さんが一時期、「ブーム」と言われるほどの熱狂を生み出したのは、マスコミのせいばかりではない。委員長になった最初の衆院本会議での代表質問で、こう切り出した。

 「女は三つの老後を生きなければなりません」。夫と自分の親の老後。次いで夫の老後。最後に自分自身の孤独な晩年がやってくる。「老後という言葉の後ろから、女性たちのため息が聞こえてくるのです」

 このくだりは大きな反響を呼んだ。介護保険制度ができたのは、それから10年以上あとのことだ。女性たちが耐え忍んできた格差、差別、不条理な負担のシワ寄せ……。土井さんにはそうした女の怨念を体現するかのような、凜とした戦う姿勢を感じさせるところがあった。フェミニストの活動家や学者らが周辺にいたことも影響していた。

 党内外との駆け引きとか、党務とか、いわゆる「政治」には最後までなじめなかった。政治のプロたちからすれば「素人くさい」ということなのだが、ご本人は「プロに任せた結果の、政治のていたらくでしょ。素人結構、それは褒め言葉」と意に介さなかった。

 

◆サダム・フセインに談判

 

 土井さんの、外交への思いも紹介しておきたい。衆院の外務委員会に一貫して所属し、外交や国際問題で積極的に発言してきた。社会党委員長としても「野党外交」に熱心にかかわった。

 イラクがクウェートに侵攻した第一次湾岸戦争の時、土井さんはバグダッドに乗り込み、サダム・フセイン大統領に戦争回避を談判した。私も同行したので、よく覚えている。

 まずパリに飛び、社会党出身で旧知のミッテラン大統領と会談。米国との間に立って和平を探っていたフランスや国際社会の動きを聞いた。そしてバグダッドへ。空港には国民議会議長が出迎えた。側近の第一副首相と会談していると、執務室から声がかかり、フセイン大統領との会談になった。

 会談の中身は詳しくは明かさなかった。戦争が迫る中で、相手を刺激したくなかったのだろう。その後、語ってくれたところによると、「戦争になれば男は一度死ねば終わりだが、残される女、子どもは長く苦しむことになる。停戦は開戦の何倍もの努力がいる、兵を引くべきだ」と迫った。フセインは落ち着いて聞き、「あなたの言うことはよく分かるが、ここで米国に屈することは、アラブ全体が屈服することになる」などと応じたという。

 フランクフルト経由で帰国し、自宅で眠り込んでいると、会社からの電話で米国などによる空爆が始まったと知らされた。

 結果として、戦争回避の役には立たなかった。野党の外交に何ができるのかとの批判もあった。だが、フセインとの直談判など思いもよらない首相と比べ、野党の立場を逆に生かして乗り込んだ行動力は評価されるべきではなかったか。

 最後に、いいニュースをひとつ。土井さんが残した草稿や手紙などの膨大な資料を、彼女の母校である京都女子大学(旧京都女子専門学校)のジェンダー研究所が引き取って保存、研究することになったそうだ。昨今の若者たちの、ジェンダー問題への関心は極めて高い。いつか彼ら彼女らが、土井たか子という政治家の存在に気づいてくれることを期待している。

 

みやた・けんいち▼1955年生まれ 78年朝日新聞社入社 長野支局などを経て 政治部 中曽根首相番を皮切りに 首相官邸 自民党 社会党 外務省などを担当 英オックスフォード大学でロイター・フェロー ウィーン モスクワ各支局長 論説副主幹 企画事業本部長 ジャーナリスト学校長 2019年退社し 今春まで国際基督教大学の客員教授

 

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