取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
「アメリカ出羽守」に反発/米国研究ライフワークに(宮本 倫好)2024年8月
今秋の米大統領選。トランプで決まりの「確トラ」か、見事なハリスの「逆ハリ」成功か、興味は尽きない。思えば記者生活とその後の教員生活のほとんどを、米国との関わりで過ごした私の生涯だった。
英国の16世紀の思想家トーマス・モアが『ユートピア』というタイトルで本を書き、以後これが「理想郷」を意味するようになった。そもそも「ユ」は「無い」という否定詞、「トピア」は「場所」だったから、最初から「この世に存在しない場所」の意味だった。
若い時代の私は、なぜ米国を理想郷のごとく憧れたのか。戦時中の狂気の日本を知っている戦中派最後の世代として、今から半世紀以上前、社長が気まぐれのように作った留学制度で突然、米国に放り出された。戦中、戦後の貧窮を引きずっていた私は、万物が豊穣の角から溢れ出るような当時の米国に初手から圧倒された。比較的等身大に見つめ合える今の日米関係とは違って、絶対に勝負にならない相手だったのだ。
当時、幾層にも重なり合う高速道路と摩天楼群を遠望する南カリフォルニアの陽光の下に立った時、将来日本がこの国のように豊かになれると考えた日本人がいたとしたら、よほどの楽観主義者だったろう。
私は「よくぞこんな国と4年近くも全面戦争をしたものだ」と、先人指導者たちの愚かしさを今更のごとく実感するばかりだった。召集兵だった司馬遼太郎は「何と愚かな国に生まれたものか」というのが、敗戦直後の中国での実感だったというが、それに通底する。
1日何回も「アメリカでは」
思えば渡米の数年前、神戸支局勤務だった私は他社の米国帰りに、記者クラブで毎日会った。彼の渡米は戦後間もなくで、エリート中のエリートであったに違いない。
彼の嫌味な点は一日に何回も飽きもせず、「アメリカでは」「アメリカでは」というセリフが口を突いて出ることだった。いわゆる「出羽守」だ。クラブ員は皆いい加減ウンザリしたが、何しろ浦島太郎に竜宮城の話をされるごとく、また宇宙飛行士に月の話を聞かされるごとく、誰も反論したりコメントしたりする知識も経験もない。ただ陰でこの出羽守をひたすらくさすだけで、負けん気な記者たちは皆、連日特ダネを抜かれるように切歯扼腕した。
まあそれほどアメリカは、戦後の一時期、多くの日本人にとってひたすらに仰ぎ見、憧れる存在だったのだ。この某記者は、虎ならぬアメリカの超大国としての威を借りて、無知な民衆を代表するクラブ員たちを見下しまくったのだ。
そこで私ら無知、無力な記者たちにとっては、対抗法はなかったのか。「正攻法」はただ一つ。こちらも遅ればせながら「虎の威を借りる信者」になるしかない。クラブ員から後年、海外特派員が何人か出たのは、「出羽守」の威張りの余慶だったのかもしれない。皆ひそかに悔しさを武器に変えるべく、深夜まで自宅で懸命に爪を研ぎ続けたことだろう。まず具体的には英語力の画期的な向上が必須要件だった。
短波放送、丸暗記で英語猛勉強
私の場合、住居があった公団団地の屋上に、勝手に物干し竿を二本立て、針金を巡らして海外短波放送の受信基地とした。これでヒアリングの方は大丈夫だろう。スピーキングは外人の書いた分厚い英会話本を丸暗記することにした。添付のネイティブによるレコードもすり切れるまで聞きまくった。
そしてこれら中身を、繰り返し一人で唱えた。通勤の途上も、団地内での散歩の途中も問わない。「あそこのご主人、毎日一人でブツブツ言いながら歩いているが、気がふれたのではないか」といういう噂も時にして耳に届いたが、「燕雀いずくんぞ、鴻鵠の志を知らんや」と、ハナから無視することにした。
こうした苦節〇年、労苦は何とか実った。後年、会社派遣の特別留学生として米本土に立ったのだ。後は「一瀉千里」とはとてもいかなかったが、まあ何とか、昔の「神戸の出羽守」の驥尾に付して、彼がまいた種を細々と育てることが何とかできたのが、自分の一生だったという気がする。
宮本 倫好(みやもと・のりよし)
1930年生まれ。米コロンビア大・修士課程修了、フルブライト・スカラー、産経新聞ロンドン、ニューヨーク支局長、編集委員室長など。記者退職後、文教大学教授、国際学部長、副学長・理事を経て現在、名誉教授。スピルハレット大学(ルーマニア)名誉客員教授、フリー・ジャーナリストとしてコラムなどを執筆中。