取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
桜井昌司さん 「布川事件」で再審無罪/「苦しみも喜びに変えられる」(冨田 芳夫)2024年7月
司法記者になりたくて新聞記者を志した。本稿の執筆依頼を受け、真っ先にこの人のことを書きたいと思った。
包容力ある力強い手の記憶
その人は首から画板を下げ、署名を集めていた。笑顔で握手を求められたことを覚えている。その手は包容力があり、力強かった。初対面は27年前の秋、小学4年生のころだ。父と、実家の茨城県から東京での集会に行った際に出会った。「えん罪」「再審」…。警察と検察の違いも分からない幼い頃だったが、その小柄でがっちりとした体から放たれる強烈な熱意だけはひしひしと伝わってきた。
桜井昌司さん。茨城県利根町布川で1967年に男性が殺害された「布川事件」で、共犯とされた杉山卓男さんと共に強盗殺人罪などで無期懲役が確定していた。握手を交わしたのは、仮釈放されて間もない頃。再審請求に向けて署名を集めていた。
えん罪はあってはならないと思ったが、なぜ嘘の自白をしたのか。理解できずにいた。
「嘘の自白なんて簡単ですよ。困った時は取調官が助けてくれるから」。桜井さんは甲高い声でいつも漫談のように語った。同時に虚偽自白に追い込まれる心理も吐露した。「何を話しても否定され、責められると人間は弱く、心が折れてしまう」
2005年9月、水戸地裁土浦支部は事件の唯一の直接証拠とされた2人の自白を「信用性に多大な疑問が生じた」と再審開始を決定。「自白は捜査官に誘導された疑いがあり、著しい変遷もある」と指摘した。当時高校2年だった私はニュースを耳にして、驚きとともに自分を恥じた。それはどこかで権力の無謬性を信じていたからだ。
「人間は過ちを犯す。問題は間違えたことを認められるかどうかだ」。桜井さんの言葉に背を押され、大学では法律を学んだ。刑事司法手続きのあり方や権力が孕む危うさ。何より法を扱う「人」への関心が高まった。
新聞社から入社内定の連絡を受けた日は、桜井さんらと事件現場周辺を歩く勉強会の最中だった。真実を追う記者になろうと誓った。
事件発生から43年となる11年5月、2人に無罪が言い渡された。桜井さんは「体の芯からじわっと安らかな気持ちがわき上がった」と振り返るが、涙は出なかったという。
そんな桜井さんの涙を見たことが一度だけある。21年1月。桜井さんは前年にステージ4の直腸がんが判明し、余命1年と宣告されていた。会うのが最後になるかもしれないと、父になった私は家族で水戸市の自宅に訪ねた。
桜井さんが腕を振るった里芋とイカの煮付けやおでんで一献を交わした。少しやせていたが、いつものように明るく「がんになっても幸せ。克服できれば周りの人に希望を与えることができるでしょ」と桜井節は健在だった。
「こっちに来い。おじさんが遊んでやる」。当時4歳の長男は初めて会う「おじさん」が怖かったのか泣き出してしまった。そんなとき、「オレもおやじになりたかった」と桜井さんの頬に涙が伝った。
人生の羅針盤となった言葉
20歳で逮捕され、64歳で果たした雪冤。29年間の獄中生活で愛する家族も失った。常に気丈に振る舞う姿の裏には、人生の半分以上を「事件」で奪われた重い現実があることを改めて突きつけられた。
それから2年7カ月後、桜井さんは76歳でこの世を去った。
「どんなにつらいことや苦しいことがあっても、それを喜びに変えられることが人生」。桜井さんが遺した言葉は、私の人生の羅針盤となっている。
(とみた・よしお 2011年京都新聞社入社 現在、編集局報道部記者)