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「ロン―ヤス関係」事始め?/日韓打開は「黄色いシャツ」(熊坂 隆光)2024年7月

 政治部に配属されてすぐに担当したのは「裏長屋の傘張り浪人」を自認していた無役の中曽根康弘氏だった。

最初の大仕事は衆院ロッキード問題調査特別委での証人喚問(1977〔昭和52〕年4月13日)。これで中曽根氏の総理の芽はなくなった、というのが永田町の空気だった。そんな中曽根氏がどん底状態から総理大臣の座にたどり着いた過程をつぶさに取材できたことは、貴重な記者経験だった。

 中曽根氏が予備選から始まった自民党の総裁選挙を勝ち抜き、第71代内閣総理大臣に選出されたのは82(昭和57)年11月27日。その数日後だったと思う。突然、在京米国大使館政治部の書記官から連絡を受けた。「中曽根総理のことについていろいろ教えを請いたい」という丁寧な申し出だった。私の名前は当時親しくしていた中曽根派の与謝野馨衆院議員から聞いたという。

 

個人的信頼関係を築きたい

 

 年明け早々には最初の首脳外交として中曽根氏の訪米が取り沙汰されていた時期だ。生半可なことをしゃべったら笑われると思い、にわか勉強をしてから指定された大使館近くの韓国料理屋に出向いた。ところが私より少し年上に見える書記官が流暢な日本語で聞いてきたのは、政治むきの話では一切なく、中曽根氏の日常生活についてばかり。「好きな食べ物は」「酒量は」「米国の俳優や歌手でお気に入りはいるか」…。確かに四六時中取材対象について回っている番記者に聞くのがふさわしい内容ばかりだった。

 しかし、なぜそんな取材をするのか。いぶかる私に書記官は「日米間の懸案や当面する国際情勢はわかりすぎるほどわかっている。それより今度の首脳会談最大の目的はレーガン大統領と中曽根氏が個人的信頼関係をどう築くかだ。信頼関係さえ構築できればあとは両首脳が一緒に課題を解決できる。そのためには中曽根氏をどうもてなしたらいいか。いま東京の大使館は懸命に情報を集めている。こんな指示を受けたのは初めてだがそれだけ大統領が中曽根氏との出会いに懸けているということだろう」と説明してくれた。

 

中曽根さんの望み伝える

 

 子どものころのエピソードや、食事に卵焼きさえ出れば機嫌がいいわかりやすい食の好み、果ては何度も聞かされた旧制静岡高校時代の近隣の女学校との交流・青春譚などに話が及んだ。

 最後に私から「中曽根さんが一番望んでいるのは、レーガン大統領とファーストネームで呼び合う仲になることですよ」と中曽根氏の日ごろからの望みを伝えてみた。ファーストネームで呼び合うことなど欧米では当たり前のことで、書記官は最初、私の言っていることが理解できないようだった。

 ただ、中曽根氏は総理になるずっと以前からわれわれに「日米は欧米関係のように首脳同士が頻繁に電話連絡したり、懸案があれば週末を利用してすぐ直接会ったりするようにならねば。首脳同士もファーストネームで呼び合う関係を築くことが大切だ」と熱っぽく語っていたことを説明すると、得心したようだった。

 中曽根首相の訪米は明けて83(昭和58)年1月17日からと決まり、私も同行することになった。予算編成や年頭の伊勢神宮参拝などそれでなくても忙しい年末年始に加え、新政権発足後の混乱。休む間もないあわただしい訪米となった。

 

最初から波長合った両首脳

 

 日程はあわただしかったが、予想された以上に両首脳の波長が合い、雰囲気はこれまでの歴代総理訪米とは大違い。新しい日米関係の幕開けを強く印象付けた。

 2日目の朝、レーガン夫妻は中曽根夫妻をホワイトハウスに招き、朝食を共にした。その後に控えた首脳会談前のジャブの応酬かと身構えたが、家族を交えた和やかな朝食会だった。記者団に模様をブリーフィングした同行の藤波孝生官房副長官が最後に「大統領から、これからは私のことをミスタープレジデントなどと呼ばず、〝ロン〟と呼んでほしいと申し出があり、中曽根総理は、それなら私のことは〝ヤス〟と呼んでほしい、と応え両首脳は今後、お互いを〝ロン―ヤス〟のファーストネームで呼び合うことで一致しました」とまるで、外交交渉がまとまった時のように、にこりともせず、発表した。

 中曽根氏の念願がかなった瞬間だった。私も1カ月ほど前の大使館書記官との会話を思い出して嬉しくなった。残念ながらこのくだりは、首脳会談そのものや、ワシントンポスト紙のグラハム社主との会談で出たとされる「不沈空母」発言などのニュースに押され、2面片隅で10行あまりの小さな記事にしかならなかった。

 そもそも、私の進言が結びついたかどうかすらわからない。ただ、帰国後、くだんの書記官から同じ韓国料理屋でもう一度ごちそうになった。数年後、私はワシントン特派員として赴任したが、国務省に戻っていた彼にはバックグラウンドの解説などでだいぶお世話になった。

 就任当初の中曽根外交でもう一つ忘れられないのは、訪米直前に突然発表になった訪韓だ。米国行きを控えた1月11日から1泊2日という強行軍で、全斗煥大統領と会談した。私はこちらにも同行した。

 首脳会談は午後5時から。続く公式晩餐会も含め、日程は遅れに遅れ、細かい様子がわからず、締め切り時間を気にしながら待ち続けた。それもそのはず、意気投合した両首脳は晩餐会の後、そのまま予定になかった二次会、即席の歓迎パーティーに臨んでいたのだ。

 様子が明らかになったのは日付が変わってからだった。パーティーはカラオケ大会になり、全斗煥大統領が日本語で「影を慕いて」を歌えば中曽根氏も韓国語で「黄色いシャツ」をお返しし、大うけしたという。両首脳が個人的信頼関係強化を確認した象徴的な出来事だった。

 このカラオケ合戦は、本記筋原稿や同じ日の「中川一郎氏の死、自殺と判明」などのニュースに押され小さな扱いに終わった。しかし、私にとっては大きな出来事だった。

 

韓国語のカラオケテープ

 

 まだ総裁予備選挙が本格的になる前、当時は当たり前のように行われていた政治家の車に同乗するいわゆる「ハコ乗り」取材の際、後部座席に「黄色いシャツ」の韓国語カラオケテープを見つけたのだ。「8トラック」と呼ばれていたビデオテープ並みの大きさのものだった。

 ドライバーのNさんが「最近一生懸命練習しているんですよ」と教えてくれた。実はこの曲はその年の中曽根氏と担当記者との暑気払いで、私が歌った曲だった。その時は「中曽根さんも持ち歌にしたいのかな」程度にしか思わなかった。

 「黄色いシャツ」の選曲の経過はついに聞き漏らしたが、中曽根氏が総裁選出馬前から、いずれ総理大臣になったらできるだけ早く韓国を訪問し、全斗煥大統領との個人的信頼関係を構築し両国関係の改善を図ろうとしていた証左ではなかったか、と推測している。

 首脳同士がファーストネームで呼び合うのは、今では当たり前のことになった。小泉純一郎氏がブッシュ大統領の前でプレスリーを歌ったり、安倍晋三氏がトランプ大統領とゴルフを楽しんだり、個人的信頼関係が外交関係の極めて大きな要素となっているのもこれまた当たり前のこととなった。

 我田引水、勝手な解釈かもしれないが、40年以上も前の日米、日韓二つの首脳会談にもしかしたら自分も絡んでいたかもしれないと思い出しては密かにほくそ笑んでいる。

 

くまさか・たかみつ▼1949年神奈川県生まれ 71年産経新聞社入社 浦和支局などを経て 76年政治部 自民党中曽根派 労働 外務省などを取材 この間 米デューク大学留学 ワシントン特派員・支局長を務め 97年政治部長 その後東京編集局長 日本工業新聞社長 産経新聞社長・会長など 2019年から相談役 13年から17年まで日本新聞協会副会長

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