取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
市民から遠い権力 裁判官/その素顔、肉声を紙面に(井上 裕之)2024年6月
国家機関の中でもガードの堅さは筆頭格。権威や形式にこだわり、前例のない取材は嫌う。そんな手強い相手が意外にも折れたのは1990年の春先のことでした。
「いいでしょう。そこまで言われるなら協力しましょう」。福岡高裁の小長光馨一・事務局長判事(当時)は意を決したような言葉で私たちの申し入れに応じました。
「だめ元」戦術で企画実現
裁きを裁く―。90年1月から約1年半にわたり社会部で連載を軸に展開したキャンペーン企画。剣術に例えるなら、まさに大上段に振りかぶったタイトルでした。発案者である私は先輩記者から「本気でやりたいならこのタイトルで行け」と覚悟を促され、取材に奔走しました。
市民の感覚と乖離した司法の病理を掘り下げつつ、両者の距離を縮める企画にしたい。そのためには法の番人である裁判官の肉声を聞き、彼らの素顔を描かねばならない。
私はこの思いを率直に小長光判事や当時の可部恒雄・福岡高裁長官にぶつけ、裁判官への個別取材、実名での紙面掲載を認めるよう折衝を重ねました。たとえ無理でも正面から体当たりする「だめ元」の戦術でした。それが奏功し、取材の壁を崩す突破口になりました。
「裁判所NOW~法服の肖像」。こう題した連載第5部を中心に、裁判官の声が続々と紙面に刻まれました。多忙を極める仕事の実態や人を裁くことの難しさ、極刑を言い渡す時の苦悩…。実名で登場したのは九州の地・高裁や支部などで勤務する18人。その多くは写真の撮影、掲載にも応じてくれました。当時としてはまさに前例のないことでした。
小長光判事は後に福岡地裁長官、可部長官は最高裁判事へと上り詰めました。二人が取材の許可を巡り最高裁事務総局とどう渡り合ったのか、詳しい話は聞けませんでした。ただ「裁判所はもっと開かれた場所になるべきだ」と訴える私の話を遮ることはありませんでした。
「司法難民」と呼ぶべき人々
82年に入社した私は初任地の北九州市で福岡地裁小倉支部、続いて本社社会部で福岡地・高裁本庁を担当しました。地裁支部の中でも小倉は本庁並みに事件が多く、福岡地・高裁本庁では重要事件が目白押し。記者室と法廷の間を往復する日々が続く中、裁判所内で度々目にするようになった光景こそが企画案を温める素朴な出発点になりました。
所内をきょろきょろしながら迷い人のように歩く市民。法律トラブルを抱えていても経済的事情などから弁護士には依頼できない。そこで恐る恐る裁判所に足を運んだものの、どこの窓口でどんな手続きをすればいいのか分からない。いわば「司法難民」と呼ぶべき人々です。
その頃の裁判所は入り口にいかめしい顔つきの守衛さんがいてロビーには簡単な案内図があるだけ。一般市民に親切に対応する窓口はありませんでした。「これでは市民を遠ざけているに等しい」と私が訴えても職員は「来庁者の大半は法曹関係者ですから」と冷たい反応でした。
困惑した市民が記者室に助けを求めてくることも少なくありませんでした。裁判は公開が原則とされながら、傍聴者がメモを取る行為は禁止(89年3月から解禁)、報道機関による法廷内の写真撮影も不可(91年1月から開廷前に限り条件付きで解禁)といった閉鎖性への疑問や怒りも膨らんでいました。
88年から順次断行された司法行革も見逃せない動きでした。全国の簡裁139カ所、地裁支部41カ所の統廃合。これには大反発が起きてもおかしくない。と思いきや、法律家や一部地域を除いて反対の火の手が広がることはありませんでした。
裏返せば「裁判所はなくて構わない」という住民の意思表示。つまり司法が地方を切り捨てた一方で、司法もまた住民から見放されてしまった。私の目にはそう映りました。
「実は我々も喜べない話です」。こう吐露した裁判官もいました。市民の司法離れや裁判所予算削減への危惧。それが私たちの取材に応じる機運を呼び覚ましたのも事実です。
勇気ある裁判官との出会い
社内では「地方紙が司法の全体像に迫るのは無理」との声もありました。それでも反響は広がり、こんな電話がかかってきました。「裁判官を集めておくから大阪まで来てほしい」。私たちの企画に協力したいという現職の裁判官からでした。
指定されたホテルの会議室に行くと、関西地区で勤務する現職と元職の10人がずらり。匿名ながら制度の矛盾点や最高裁による裁判官統制の実態を詳しく話してくれました。
裁判官の自主的研究グループの世話人だった石松竹雄・大阪高裁判事(当時)は気骨ある人でした。自宅の書斎で取材に応じ、検察の捜査や刑事裁判の問題点に触れつつ「裁判官の自由なくして人の自由を裁判で守ることはできない」と語りました。
裁判の形骸化や長期化、誤判を生む体質、司法をあざ笑う事件屋の暗躍…。8部にわたった連載は、司法の矛盾に直面して苦悩した九州の当事者や、実名・匿名合わせて計40人近くの勇気ある裁判官たちの声で肉付けされていきました。
無論、これらは問題の断面にすぎず、実相を描き切ったとまでは言えません。司法の病理を半ば看過してきたメディアの責任も否めず、自戒の念にも駆られました。
国が司法制度改革審議会の意見書「21世紀の日本を支える司法制度」を受け、改革に踏み出したのは2001年。私たちの企画から10年後のことです。裁判の迅速化、裁判員裁判の導入、法曹養成の見直し、法テラスの設置などは評価できます。
他方で訴訟件数(弁護士需要)の伸び悩みや法科大学院の挫折といった課題にも直面しています。現在進行中の裁判手続きのデジタル化に危うさはないのか。その点も含め、メディアは改革の行方を引き続き注視していくべきでしょう。
影響力衰え裁かれる新聞
取材の現場から離れても、ここを訪れるとペンを握りたくなる。そんな場所が今の私の職場近くにあります。日刊新聞発祥の地である横浜市中区の中心部にある日本新聞博物館(ニュースパーク)です。
日本の活字メディアは横浜を起点に全国に広がり、在野の精神で社会と向き合う数多くの記者たちを輩出してきました。ささやかながら自分もその一人である、とあらためて気づかされます。
新聞の歩みを伝える博物館では、情報が氾濫するインターネット社会の功罪やメディアの機能を検証する企画展を開催。見学に訪れる子どもたちに情報リテラシーを授けたり、取材を疑似体験してもらったりするコーナーも設けています。
平野新一郎館長によると、今年2月には館内で東北・北海道の新聞8社が合同会社説明会を開いたそうです。時代の波に翻弄されるメディアが原点に立ち返り、新たなジャーナリズムの歴史を紡いでいく。そうした姿勢にも共感を覚えます。
かつてほどの影響力を持ち得ない新聞は今、その存在意義を厳しく問われ、むしろ裁かれる立場に置かれている。逆説的に見れば、そんな構図が頭に浮かびます。
くしくも新聞博物館の対面には地上13階建ての横浜地裁がそびえ立ち、両者が対峙しているかのようです。今の私がこの寄稿を通じて記者人生を振り返る機会を与えられたことも巡り合わせの妙なのか。不思議な縁を感じます。
いのうえ・ひろゆき▼1957年福岡県生まれ 82年西日本新聞社入社 社会部 東京報道部 北京特派員 取締役編集局長 論説委員長などを経て 2022年11月退社 共著に『裁きを裁く~危機に立つ司法』『少年~「親と子」の悲劇を追う』など