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韓志鵬さん 元中国広州市政治協商会議委員/「明星」の輝き、市民と共に(桑原 健)2023年9月

 中国広州市の駐在記者時代、地元の政治協商会議(政協)に「明星(スター)委員」と呼ばれる人がいた。韓志鵬さんという人だ。

 人口の急増に道路や公共交通機関などのインフラ整備が追いつかず、不便な暮らしを送る地域の苦しみを代弁していた。「満足な学校や病院もない。公衆便所は全くない」。市政府の幹部らに切々と訴えて対応を迫っていた。

 タクシー運賃引き上げの認可を巡り、説明や手続きが不十分だと当局を追及したこともあった。生活苦や物価高にあえぐ市民にとって、まさしくスターだった。

 政協は人民代表大会(人代)と並ぶ民意を集約するための機関で、ともに全国、省、市単位の組織がある。韓さんは華僑向けの経済紙編集者を本業としつつ、広州市の委員を務めていた。

 2012年初め、取材を申し込むと「いいですよ。そちらに行きます」という言葉がすぐに返ってきた。当局者の目を気にして、外国メディアの取材は避けるかもしれないと考えたのは杞憂だった。

 

虎の尾を踏み続ける言動

 ジャンパー姿で軽々と現れたのを見て、韓さんに「イス委員」という別の呼び名があるのを思い出した。折り畳みのイスを持ち歩き、呼ばれていない会議にも顔を出す行動力の持ち主だった。

 気押されるような熱血漢ではないかという思い込みはすぐに裏切られた。穏やかな表情で、交通や水道料金など地域の問題一つ一つを淡々と語った。自分を大きく見せたり、飾り立てたりすることは全くない。息を吸うように市民の悩みを聞き、息を吐くように行政に訴えかけているのだろう。迷いのない人間のありようが見えた。

 自分を守ることの目方が軽いのだとも思った。韓さんの言動は一つ一つが虎の尾を踏んでいる。本人は「委員として当然のことをするだけ」と言う。それが容易でないのは、韓さんだけが明星と呼ばれていることで明らかだった。

 中国が変わるなら、韓さんのような人が波頭になるのではないかと思った。明星は「明けの星」になるかもしれないと想像した。

 習近平氏が13億人の頂点に立つ節目の年だった。習氏の父は文化大革命で迫害され、本人も農村で苦しい青年期を過ごした。「毛沢東時代に苦労した習氏なら中国を少しは自由な国に変えてくれるだろう」と願う人は少なからずいた。

 結末は多言を要しない。共産党設立100年を迎えた21年、習氏は天安門の楼上で一党支配の優位性を強調した。背広の幹部らを従え、ひとり灰色の人民服に身を包んでいた。真下にある毛沢東の肖像画と全く同じ格好だった。

 

必要とされたとき声上げる

 韓さんには中国の政治体制や自身の将来についても聞いた。政治については答えずに「私はあまり計画性のない人間。人々が私を必要とするとき、彼らのために声を上げるだけさ」と話していた。韓さんは言葉通りの活躍で明星と呼ばれ続け、今は引退している。

 中国では7月の改正反スパイ防止法施行など国内の締め付けを強める動きが後を絶たない。その陰では、身近な社会や生活をよくしたいと行動する無数の小さな星たちも輝いている。隣の大国の難しさを思い、希望を思う。

 

 (くわはら・けん 1995年日本経済新聞社入社 企業報道 国際 経済の各部次長などを経て 現在 総合解説センター編集・事業グループ長)

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