取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
菅原幸助さん 中国残留孤児支援に奔走/贖罪で走らせた「避難列車」(鈴木 達也)2023年8月
日本人に多い姓は佐藤さん、鈴木さん、高橋さんが上位という。「菅原さん」は50番目にも入らないらしいが、不思議なことに永住帰国した中国残留日本人孤児の中には比較的多くいる。
菅原幸助さんという人の関わりが大きい。ちょうど10年前に88歳で亡くなるまでの後半生を、ひたすら孤児支援にささげた。
旧満州(中国東北部)に取り残された孤児たちは、日中国交回復(1972年)を機にやっと帰国がかなうようになった。顔写真や断片的な情報を伝える「肉親捜し」のニュースをご記憶の人も多いだろう。制度は少しずつ改善され、やがて肉親が判明しなくても帰国できるようになっていく。
私財投じ就籍に尽力
ところが肉親未判明者は帰国しても名乗るべき姓を知らない。幼いころに親と生き別れたのだから当然である。頼ったのが、私財も投じて就籍(日本国籍取得)に取り組んでいた菅原さんの姓だった。「菅野」「菅沼」など一部を借用した人も少なくない。
国賠訴訟原告団の代表相談役だったころに知り合った。連載企画で取り上げるために残留孤児を紹介してもらうつもりだったが、話を聞くうちに菅原さん本人に焦点を当てることにした。菅原さんにとって孤児支援は「贖罪」活動なのだと知ったからだ。
昭和改元の前年に山形県に生まれ、大農場経営を夢見て満蒙開拓青少年義勇軍に志願した。14歳で意気揚々と大陸に渡ったが、「満州国」はご存じのような末路をたどる。関東軍に徴兵されていた菅原さんはソ連参戦を受けて急きょ憲兵に任じられ、日本人を本土に帰還させる「避難列車」の警護役を命じられる。当時20歳。
新京(現長春)駅で乗車できたのは「乗車証」を持っている高位高官とその家族だけで、民間人は後回し。水の補給のため川の近くで列車を停めた際に襲撃を受け、車外に出ていた母子を置き去りにして出発させたことも告白してくれた。
定年退職後、孤児支援に奔走することになる。「命令とはいえ、僕は政府の『棄民』に加担したんですよ。置き去りにしたあの子が、もしかしたら残留孤児と呼ばれる人たちなのかもしれない」。取材中に何度も菅原さんの口から発せられた言葉だ。
2004年に長期連載をいったん終えた後、一緒に中国を訪ねた。国賠訴訟の資料収集の一環で、弁護士たちも同行。旧満州の各地を巡り、孤児を育ててくれた養父母の聞き取り調査をした。
「戦後は終わっていない」
忘れられないシーンがある。瀋陽(旧奉天)の調査を終えた時のことだ。中年女性が駆け寄ってきて、息を切らせながら「私も置き去りにされた孤児なんです。日本に帰りたい」と中国語で訴えてくる。真偽は分からないが、菅原さんは「戦後は終わっていない」とため息をついた。
国賠訴訟は、帰国の機会を奪われた上に永住後も国が十分な支援をしなかったと訴える孤児たちが起こした。最終的には玉虫色の政治解決になり、原告には不満もくすぶった。菅原さんは憤りを込めて記録集を出版。思いの丈を書きとめて世を去った。
菅原さんの活動は、時を超えて残留孤児たちに差し向けた「避難列車」だったのだろうと思っている。
(すずき・たつや 1990年神奈川新聞社入社 報道部長 編成部長 編集局次長などを経て 現在 論説主幹)