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公定歩合 ほろ苦い記憶/経済報道の華だったころ(西井 泰之)2023年4月

 日本銀行の異次元緩和が4月の黒田東彦総裁の退任とともに節目を迎える。日銀が大量の国債を買うことで巨額の資金を供給する金融政策が長く続いた中で、もはや死語となってしまったのが、かつての政策金利である「公定歩合」だ。

 ゼロ金利政策・量的緩和の時代から20年以上も「金利のない世界」が続いてきたのだから、それも当然だが、公定歩合が経済報道の華だった時期の経済記者には寂しくもあり、当時をほろ苦さとともに思い出す。

 

しこたま飲み寝入りばな

  1991年12月30日早朝、ほんの数時間前に別れたばかりの財研キャップからの電話で起こされた。「大臣会見がこれからあると連絡があったのだけど、いってくれるか」

 来年度予算の政府案がまとまり、長丁場の予算報道の打ち上げでしこたま飲んだあとの寝入りばなだった。「公定歩合だろうか?」

ぼんやりと考えたが、当時は、予算編成の直後に公定歩合は動かさないのが不文律になっていた。

 バブル崩壊後、3回目の利下げで公定歩合が4・5%に引き下げられた時だった。

 「公定歩合だけは嘘を言ってもいいと聞かされていたけど、前打ちされるのではと気が気ではなかったよ」。当時は羽田孜蔵相のはしゃぎぶりだけが印象に残った。

 前任の橋本龍太郎蔵相の時には、メディアが事前に公定歩合変更を報じたのが発端になって、蔵相が「白紙撤回」を求め日銀が実施を遅らせるというぎくしゃくもあった。スムーズな公定歩合引き下げで大役をうまくこなしたという高揚感もあったのだと思う。

 

金融危機への対応だった

  だがそれから何年か後、公定歩合引き下げから約3週間後に開かれた92年1月の日銀支店長会議の内部資料を読んで愕然とした。

 「対外的に一切言えない隠れた理由は、金融機関のバックアップだ」。三重野康総裁が前年末の公定歩合引き下げの顛末を語っていた。

 会議に提出された極秘資料には、日銀が初めてまとめた銀行の不良債権の実態が書かれていた。

 91年は前年の株価に続いて不動産バブルが崩壊した年だった。土地担保融資が焦げ付き「利息の返済等が滞っている延滞債権は計29兆円、うち都銀11兆円、長信銀5兆円、信託5兆円~~~」。未収利息の額は、長信銀が前年の業務純益の20倍、信託で13倍、3分の1の地銀で業務純益を上回っていた。

 公定歩合引き下げは、銀行の資金調達コストを軽減しクレジットクランチに陥ることを防ぐ「金融危機対応」が狙いだったのだ。

 この時、日銀が把握した不良債権額は、その数カ月後に大蔵省が初めて公表した推計額「7~8兆円」をはるかに上回っていた。

 金融機関への公的資金投入を日銀が密かに官邸や大蔵省に働きかけたのもこの後からだった。

 実は公定歩合変更からしばらくして、大蔵省幹部から「年明けのブッシュ米大統領来日の際に内需拡大要請で利下げを求められる恐れがあった。その後に利下げをしたのでは米国の圧力に屈したとの印象になる。それで年末に前倒した」という話を聞かされた。

 それで内情がわかったような気でいたが、日銀が後の金融危機につながる不良債権問題の深淵を、初めてのぞいた際の歴史的な引き下げを記録に残すこともなく、素通りしてしまったのだ。

 

版ごと違った引き下げ幅

  それから2年半余り後の93年9月、日銀キャップとしてまた公定歩合報道に携わることになった。

 この時も夜中、寝入りばなに会社からの電話で起こされた。「各紙が公定歩合0・5%引き下げを書いているよ」。翌朝の各社との交換紙のチェックをしている経済部デスクからだった。

 93年になっても地価下落は止まらず、公定歩合引き下げが「サプライズ」という状況ではなかった。

 日銀も円高が進んだ夏から「低目誘導」と称して資金供給を増やし短期金利の低下を促すオペレーションを進めていた。

 預金金利自由化が進み、短期市場での金利操作で預金・貸出金利を動かせるようになったから、公定歩合操作から「市場調節」への移行を模索していた時だった。

 景況感や物価などの日銀の認識に変化があるような情報を流して市場を誘導し、最後に公定歩合で政策変更を着地させるやり方だった。

 各社の報道の翌週13日、三重野総裁は記者会見で「低め誘導の効果を見守る。公定歩合は全く考えていない」と明言する。

だが20日に空気が一変、公定歩合変更が明日にもという状況になったが、引き下げ幅で情報が錯綜した。

 「0・75%」の数字を同僚がつかんできたが、確証をつかめないまま統合版は「0・5%」で原稿を出し、セット13版は「0・5%~0・75%」と幅をつけるしかなかった。

 最終版では「0・75%」と正確な内容を出せたが、版ごとに、公定歩合の下げ幅が違うというみっともないことになった。「市場が先走りし動き出したし、手垢のついた0・5%ではインパクトがなかったので」というのが、日銀幹部の説明だった。

 公定歩合操作では政治がからむ郵貯金利との調整にエネルギーを使っていた日銀が、米独型の市場操作優先の金融政策を模索し、市場調節でいけるところまでと、本気で考えていたことも確かだった。

 だが他社も同様に引き下げ幅が版によって違ったり、最後まで「0・5%」と書いたりしたところもあって大揺れの公定歩合報道になった。

 「市場との対話を言いながら、日銀の情報の出し方に問題があったのではないのか」。わが身の非力を棚に上げて、日銀幹部に毒づいてはみたものの後の祭りだった。

 当時のことを、総裁をやめた後の三重野氏に聞いたことがある。

 「金融政策は、政治もからむし市場の反応もある。理屈通りやれば正しい結果がでる理科の実験のようにはいかないのですよ」

 わかっていたつもりだが、経済情勢だけでなく、内外の政治の力学や市場の思惑が複雑に絡む綱引きの中で決まっていく金融政策を報じる難しさを改めて感じた。

 

政策の透明性むしろ低下

  量的緩和策の時代になると、「金融政策のスタンスを示すのは、日銀当座預金残高やマネーストック残高に代わり、この間、「物価目標」や「フォワードガイダンス」などの中長期の政策の方向を示す仕掛けも導入された。公定歩合時代の担当者との「禅問答」のようなやりとりに比べると、金融政策の透明性は、高まったようにみえる。

 だがこの20年を見れば、実態はむしろ逆だろう。

 量的緩和策への転換自体が、ゼロ金利解除の失敗などで追い詰められてのことだったから、日銀内も政策のメカニズムや効果をめぐる意見が分裂し、それを隠すために情報発信は曖昧さが際立つようになった。

 とりわけ、異次元緩和からの撤退を模索し始めたイールドカーブ・コントロール(長短金利操作)移行後は、「緩和維持」を言いながら、実際は国債市場の機能低下などの副作用を重視して「緩和の縮小」を図る逆のことが行われ、政策自体の方向が定まらなくなった。

 その大元をたどれば、物価目標導入や総裁人事にまで政治の介入が強まり、日銀自身が政策運営の自由度を失っていることがある。

 金融政策の正常化が最大の課題の4月からの「植田日銀」でも、「書かれる側(書かせる側)」と「書く側」の攻防は続く。そのもとでいかに「真実」に迫るか。学者やエコノミストにはできない経済記者ならではの仕事だ。私には言う資格はないが、第一線の記者には頑張ってほしいと思っている。

 

にしい・やすゆき

▼1975年朝日新聞入社 経済部 朝日ジャーナル編集部で記者 デスク 編集委員 2016年に退職後 現在はダイヤモンド社特任編集委員 共編著に『リクルートゲートの核心』『大蔵支配』『経済漂流』『失われた20年』『分裂にっぽん』など

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