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関東大震災100年に想うこと(原田 亮介)2023年1月

 「新潟も相当揺れたんだよ」。筆者が子どもの頃、祖母(明治29年生まれ)からこう聞いたことを思い出します。1923(大正12)年9月1日、約10万人が亡くなった関東大震災から100年がたちます。

 地震や台風などの自然災害のリスクについて日本は世界的にどう位置づけられているのでしょうか。

 

海外から見れば災害高リスク

 少し古い資料ですが、スイスの再保険会社スイス・リーが2013年に発表した「Mind the risk」は災害で経済活動が停止することによる損失の大きさを世界の大都市圏ごとに比べています。「東京、横浜」や「大阪、神戸」などの日本の大都市が地震、台風、洪水、高潮、津波といった各項目で軒並みトップ10に入るような高リスクであるとわかります。

 2015年にも英ケンブリッジ大のジャッジ経営大学院が「世界の都市のリスク2015‒2025」というリポートをまとめています。ここでは自然災害に火山の噴火や干ばつなどを加え、金融危機や感染症やサイバー攻撃、戦争などのリスクも勘案していますが、最もリスクが高いのは台北、次が東京です。海外の視点では日本の大災害は「忘れたころにやってくる」ではなく、「いつ来てもおかしくない」事象だと言っていいでしょう。理科年表を調べると、戦後の高度成長期からバブル期にかけての日本が、たまたま大災害に見舞われなかった幸運な時代だったことに気づきます。大災害がなかったことが「奇跡の成長」の一因と言ってもいいでしょう。

 太平洋戦争の戦中・戦後には大地震で何度も1000人以上の人命が失われました。「30年以内に70〜80%の確率」で起こるとされる南海トラフ地震は太平洋沿岸に巨大津波をもたらす可能性が指摘されています。南海トラフ地震に相当する東南海地震(1944年、死者・行方不明者1223人)と南海地震(46年、死者1330人)がありました。鳥取地震(43年、同1083人)、三河地震(45年、同2306人)、福井地震(48年、同3769人)も発生しています。

 地震だけでなく終戦の1カ月後に広島を中心に被害を広げた枕崎台風は死者・行方不明者が3756人にのぼりました。水上勉の『飢餓海峡』のモチーフになった洞爺丸台風(54年、死者・行方不明者1761人)、伊勢湾台風(59年、同5098人)もありましたが、その後は巨大台風の被害は減りました。

 さて関東大震災の話に戻ります。震災は山本権兵衛首相が組閣本部を立ち上げた当日でした。入閣した後藤新平内務大臣は直ちに「帝都復興の儀」の原案を書き上げ、遷都はせず、欧米並みの都市計画に基づく新しい帝都の建設を呼びかけます。

 震災で支払いができなくなった企業の手形について政府がモラトリアム(返済猶予)を認め、日銀が「震災手形」として買い取りました。しかしその後の不良債権処理が難航し、昭和金融恐慌の導火線になったことはよく知られています。『日本経済新聞80年史』などから当時を振り返ってみましょう。

 

円安、インフレ、韻を踏む

 経済活動の回復は遅れました。勧銀、興銀など5つの銀行が営業を再開したのは1923年9月8日。証券取引所の取引はテント張りの中で10月下旬に再開し、11月15日から半月間は日経の前身の「中外商業新報」の社屋内で株式立ち会いが行われたといいます。

 なんとか経済が動き始めた翌年、政府が直面したのが急激な円安です。復興・復旧資材の緊急輸入について輸入税を減免した期限をこの年の3月に控えて駆け込み輸入が急増し、外貨不足が表面化。円相場は震災前後の100円=49㌦が9月には38㌦に下落しました。

 円安と復興需要は当然の帰結としてインフレをもたらしました。日経社史は「国際収支の不均衡から経済破綻に陥る危険が多分にあった」と指摘しています。政府はこの年10月に行財政整理案を作成し、年間予算の15%にあたる歳出削減を断行し、陸軍4個師団の廃止などを発表します。この緊縮政策によってようやくインフレは沈静化します。

 しかしこの話には続きがあります。急激な円高が始まったのです。国際収支が改善していないのに緊縮財政を「金解禁の準備」とみなす投機筋が円買いに走り、震災の翌々年の1925(大正14)年2月には100円=45㌦まで上昇しました。最終的に震災手形の後処理につまずき、1927(昭和2)年には金融恐慌が発生します。さらにその後の金解禁は経済の長期停滞につながっていきます。

 なにやら現代とのアナロジー(類似性)がみえてこないでしょうか。コロナ禍による膨大な財政支出と日銀による超金融緩和のもと、世界的なインフレが高進し、日本も物価上昇に直面しています。米国の金融引き締めのピークが見え始めただけで、昨年10月に1㌦=151円台を付けた円相場は10%以上上昇しました。「歴史は繰り返さないが韻を踏む」という格言は米国の作家マーク・トウェインの言葉だといわれます。令和の日本は当時と状況が異なり、経済危機がさし迫っているわけではありません。ただ「悪い円安」の大合唱でことが済むほど簡単ではないでしょう。

 

大災害にメディアの変曲点

 もう一つ、関東大震災で忘れてはならないのが、多くの新聞が一時的とはいえ事実上の休刊に追い込まれたことと、電信の発達でラジオの時代が幕を開けるきっかけになったことです。メディアの変曲点がそこにあります。

 9月1日午前11時58分44秒。関東大震災の発生時刻です。在京新聞社で社屋が焼け残ったのは東京日日、報知、都の3社だけでした。中外商業新報は完成間近の新社屋が火災に見舞われ、活字を失いました。前出の社史には休刊中の福島県郡山市の「東北日報」から活字を譲り受けたエピソードが載っています。「東北日報の社員が活字を持って行かれては食うに困ると騒ぎだし、(中略)従業員の退職手当としていくらか置いてきたと記憶している」と当時の社員は回顧しています。

 東京での新聞発行が困難だったにもかかわらず、米国のクーリッジ大統領は9月1日その日に、お見舞いと被災地支援の意向を電報で大正天皇に伝えています。その後、海軍の艦船も派遣しました。東日本大震災の「トモダチ作戦」の前例といわれる速やかな米国の支援はなぜ実現したのでしょうか。

 答えは電信があったからです。「本日正午横浜において大地震に次いで大火災起こり、全市ほとんど猛火の中にあり、死傷算なく、すべての交通通信機関途絶した」。米国に向けて、午後8時過ぎにこう発信したのが、当時、東洋一の無線塔ができたばかりの磐城無線電信局(現在の福島県南相馬市)でした。『電気通信大学60年史』は逓信省通信局の小松三郎氏の回想を載せています。「銚子無線が横浜港船舶と震災通信を開始したのは震災発生からわずか30分後でした」。神奈川県警察部長が大阪、兵庫の知事などに宛てて支援を求めた公電の初報は船舶と地上基地局の無線を介したもので、それが米国への第一報につながったといわれています。

 NHKの前身のJOAK東京放送局がラジオ放送を始めたのは震災の翌々年の3月です。思い起こせば2011年3月の東日本大震災で「被災者のメッセージが伝わらないことを何とかしたい」とし誕生したのがLINEサービスでした。いまや伝統メディアを「時間消費」においてはるかに凌駕するSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)も、大災害をきっかけに生まれたのです。

 

歴史を謙虚に学び、刻み続ける

 今もデジタル社会はその歩みを止めようとしません。「メタバース」「WEB3・0」など昭和世代にはどんな社会が来るのか想像しにくい時代です。

 ただ歴史を謙虚に学ぶ態度が大事なことはいつの世も変わりません。そうであるなら、日々の出来事を文字や映像で刻み続ける私たちの仕事は、世の中に必要とされ続けるに違いありません。

 

 

 はらだ・りょうすけ▼新潟県出身 1981年日本経済新聞社入社 社会部 経済部 ニューヨーク駐在 ワシントン駐在 日経ビジネス編集長 金融部長 編集局次長兼政治部長 常務執行役員グローバル事業担当 専務執行役員論説委員長などを経て 2020年から論説主幹 テレビ東京「ワールドビジネスサテライト」の解説キャスターも務める 2018年2月から21年5月まで第19代日本記者クラブ理事長

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