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盧泰愚・元韓国大統領死去の報に接し/特派員時代、不意打ちの「6・29宣言」(田中 良和)2022年2月

 権威主義打破の象徴である丸いテーブルを囲む笑顔、笑顔……。 盧泰愚氏が1987年12月の韓国大統領選挙で当選した直後のソウル市内の事務所を訪れた時のことだ。テーブルを囲んでいるのは、「一盧三金(金泳三、金大中、金鍾泌)の争い」といわれた激戦を制した盧氏を支援し、新政権の中核となるエリートばかり。どの顔もニコニコして、まるで赤ちゃんが生まれたばかりの家庭のよう。「民主主義が生まれる時はこんなものか」と深く感じ入った。

 

原稿は「勧進帳」、記事は夕刊1面トップ

 「6・29(ユギグ)宣言」と後にいわれることになる、与党民主正義党の盧泰愚代表委員の「特別宣言」は1987年6月29日朝、ソウル特派員だった私を不意打ちした。たまたま外出中だったが、第一報をつかむと、当時まだ珍しかった車内のカーフォンに飛びつき、必死の思いで夕刊用の原稿を東京に吹き込んだ。記者仲間でいう「勧進帳」だ。吹き込み終えたときには、額から汗がしたたり落ちた。原稿は朝日新聞夕刊1面トップに「大統領直接選挙へ改憲」と大きく、白抜きカット横見出し、縦5段見出しで「金大中氏は復権、盧代表、全大統領と協議」と扱われた。韓国の与野党の反応はいずれも、「寝耳に水」だった。

 「6・29宣言」には、国民による大統領直接選挙制への改憲、当時、反体制指導者だった金大中氏の赦免・復権など、思い切った民主化措置が盛り込まれていた。行き詰まった政局の打開を図るとともに、翌88年に迫ったソウル五輪成功への道筋をつける狙いもあった。

 1961年の朴正熙氏の軍事クーデター以来、軍人中心の政治が続いてきた韓国社会はこの宣言をきっかけに大きく民主化へと舵を切った。ソウルの市民は歓迎一色だった。それまで連日、学生や反体制派によるデモや集会が続いていた。主なスローガンは「独裁打倒」。昼食のため、街に出た会社員たちも石を投げて学生たちに加勢した。「戦警」(戦闘警察)といわれた機動隊員がデモ隊に催涙ガスを発射、解散させた。だが、精強だった戦警にも次第に疲れが見えてきた。集会現場で、知り合いのテレビカメラマンは「このままではいまの体制は持たない。韓国の新聞は『デモ隊は午前零時頃、自主解散』と書いているが、実はデモは午前零時以降も続いている」と、顔をしかめながらささやいた。疲れ切った戦警たちが日中、シャッターを下ろした商店街の路上で仮眠をとっている姿を目にするようになった。それでも、盧泰愚氏が起死回生の「民主化宣言」を発表するとは思いも寄らなかった。

 

民主化宣言でソウルの街は一変

 宣言をきっかけにソウルの街の光景は一変した。いつも漂っていた催涙ガスの匂いがかき消えるようになくなった。結膜炎のよう充血していた私の目もいつの間にか治った。全斗煥大統領は宣言を受け入れ、韓国社会は12月16日の大統領直接選挙に向けて走り出していた。

 大統領選挙は当初、野党統一候補を目指した金泳三、金大中両氏の交渉がまとまらず、分裂選挙になった。その隙間をついて保守票を固めた盧泰愚氏が次点の金泳三氏に200万票近い大差をつけて当選した。

 盧泰愚氏の人柄について、親しかった韓国紙・東亜日報の政治部記者は、「自分から話すのでなくて、聞く方だ」言っていた。いまの日本でいえばさしずめ、岸田文雄首相の元祖のようなものか。盧氏が大統領退任後に出版した『盧泰愚回顧録』(上下2巻、2011年)を読むと、盧氏は88年2月の大統領就任以来、労組の過激化など民主化の行き過ぎを気遣いながら、民主制度の定着に向けて着実に仕事を進めていた様子がわかる。陸士同期で先に大統領になった全斗煥氏の『全斗煥回顧録』(全3巻、2017年)からは、何事も自分から積極的に事を進める勝ち気な性格がうかがわれるのとは対照的だった。

 秘密裏に進められた「6・29宣言」作成の内幕はどうだったのか。誰が最終的にまとめたのか。それを知ろうと、当時、心当たりを当たった。盧泰愚回顧録も繰ってみたが、「朴哲彦特別補佐官が宣言の起草作業に当たった」とあるだけで、「なるほど、そうだったのか」という内容は見当たらなかった。

 

死去報道に違和感

 盧泰愚氏は2021年10月26日、88歳で死去。韓国のマスコミには、後を追うように同年11月に亡くなった全斗煥氏と並べて、盧氏を1980年5月の「光州事件」や79年12月の「粛軍クーデター」の責任者として糾弾する否定的な報道が目立った。確かに、その指摘は必要だ。いまの韓国社会に全斗煥、盧泰愚両氏を否定する空気が強いことも理解する。しかし、「棺を蓋いて事定まる」というが、故人になってからもそれ一色というのはどうかと違和感を持った。あの宣言がなければ、現在に至る韓国の言論の自由も、国力の伸張もなかっただろう。盧泰愚氏の思い切った決断が韓国の民主化に果たした役割は否定できない。ジャーナリストに「歴史の証人」の役割があるとすれば、物事の功罪を量り、多角的に報道することではないかと感じた。

 

田中 良和(たなか・よしかず)

ジャーナリスト

元朝日新聞ソウル支局長

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