ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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記者の「一本道」、とぼとぼと(橋本 五郎)2022年1月

 あかあかと一本の道とほりたり

 たまきはる我が命なりけり

 

 斎藤茂吉の歌です。茂吉は『童馬漫語』で自解しています。

 「秋の一日代々木の原を見わたすと、遠く遠く一本の道が見えてゐる。赤い太陽が團々として轉がると一ぽん道を照りつけた。僕らはこの一ぽん道を歩まねばならぬ。このやうな心を出来るだけ単純に一本調子に直線的に端的に表現しようと思ったのである」

 

■出発点は中2、ケネディ演説

 

 社会学者の先生から「聞き書き」の申し出があり、大学1年からつけている日記を頼りにこれまでの歩みをたどり、どう終着すべきかを考えています。そこで浮かんだのが茂吉の歌でした。山あり谷ありのジグザグの道でしたが、それなりに新聞記者として一本の道をとぼとぼと歩いてきたという感慨があります。

 新聞記者になりたいと思ったのは中学2年の時でした。アメリカで43歳の若き大統領が登場しました。「松明は若い世代に引き継がれた」「アメリカ国民の皆さん、皆さんは国が皆さんのために何を為しうるかを問い給うな。皆さんが国の為に何を為しうるかを問い給え」というケネディの大統領就任演説は田舎の中学生にも衝撃的でした。

 そのケネディが最も信頼し、フルシチョフ・ソ連首相との会談内容を打ち明けたのがニューヨーク・タイムズ紙のジェームズ・レストン記者だったという記事を読みました。新聞記者はすごいと思いました。やがてベトナム戦争が激しくなりました。「ベトナムに和平を」と内外の多くの記者が健筆を振るっているのを見て憧れが強くなりました。

 しかし、新聞社に合格しても不安がありました。自分に向いていないのではないか、新聞記者という仕事に耐えられず、辞めたいと思う時があるのではないか。その時のためにも、なぜ他の職業ではなく新聞記者を選んだのか、自分の中で確認しておこうと思いました。

 その第一は、記者の役割はこの世の「なぜ」に答えることではないのか。なぜ戦争は起きるのか。なぜ人は人を殺すのか。物事がなぜそのように決まったのか。さまざまな疑問に答える素材を提供することだと思ったのです。第二は、不遜な言い方ですが、自ら主張する術を持たない人の代弁をするのが大事な役割ではないのかと思いました。

 社会人になるにあたって母に三つのことを言われました。一つ目は何事にも手を抜いてはならない。常に全力であたれ。二つ目は傲慢になってはいけない。常に謙虚であれ。三つ目は誰も嫌いになることはない。嫌だなあと思ったら、その人の中に自分よりも優れているものがあるかを見よ。必ずあるものだ。そうすればもう嫌いになることはないよ。

 この三つの教えと、秋田高校時代の鈴木健次郎校長先生の教えが記者生活の支えになりました。先生は赴任して早々生徒たちに訴えました。「諸君はいつ、どこで、誰にこう問われても直ちに断言できる人間になりなさい。それは『汝、何のためにそこにありや』です」。この問いにはとても重いものがあります。

 

■「常に勉強を怠るな」の戒め

 

 こうして記者として地方支局の生活が始まりました。胸に刻んだのが大学の恩師堀江湛先生の言葉です。「どんな職業に就こうが、常に勉強を怠ってはならない」。それは事あるごとに遠雷のように響いてきました。新入社員の研修会で毎年決まって言うことがあります。

 「私たちの仕事は、その人が20年も30年も一筋でやってきたことをわずか数日の取材で断罪する傲慢な仕事です。それが宿命だけに、その人の20年分を追体験するぐらいでなければなりません。一刻の安息も許されないのです」。それはまた自らへの戒めでもあります。

 これまでの記者人生の中でいくつかの分岐点がありました。編集局次長になって間もなく、社長に「テレビに出てくれないか」と言われました。新聞記者として全うしようと思っていましたが、半ば業務命令です。渋々始めることになりましたが、今になってとても感謝しています。

 政治部長時代、「わかりやすく、ためになって、おもしろい」政治面をつくろうと部員に呼びかけました。テレビの場合はもっとわかりやすくなくてはいけません。最初に何を言うか、「つかみ」も大事です。この点では新聞記事もまったく同じです。

 第二の分岐点は胃がんで胃の全摘手術をしたことです。お医者さんや看護師さんにどんなに感謝しても感謝し切れません。主治医の済生会中央病院の大山廉平先生に言われました。「どれぐらい生きられるかはわかりませんが、一日一日を大切に生きてください。無事1年過ぎたら1年生の修了証を差し上げましょう。2年が過ぎたら2年生の修了証を差し上げましょう」。そう言われて21年の歳月が過ぎました。

 

■24人の総理を身近に見て

 

 政治記者として三木武夫以来24人の総理大臣を身近に見てきました。多くのことを学びました。「政治とは鎮魂である」が政治信条だった大平正芳は「権力は奉仕する目的に必要な限り、その存在が許されるものである」という謙抑的政治観の持ち主でした。そこに「韜晦の政治」の姿を見ました。

 福田赳夫は「清貧の政治」で貫かれていました。掲げる政策と自らの日常生活にこれほど齟齬のない政治家は珍しいと思いました。それゆえに激しい権力闘争の世界ではなかなか勝者になり得なかったのかもしれません。『評伝 福田赳夫』を読めばそれがよくわかります。

 中曽根康弘は国家を背負った「王道の政治」を追求しました。権力の持つ魔性を自覚しながら、「政治家とは歴史という名の法廷で裁かれる被告である」と自らを歴史の中で相対化することを忘れませんでした。101歳で亡くなるまで休みなく勉強し続けた「生涯一書生」でした。

 

■ジャーナリストに必要な要件

 

 ジャーナリストに必要な要件とは何だろうと考えてきました。百人百様でしょうが、私は三つのことを思ってきました。第一は「健全な相対主義」です。政治の世界では特にそうですが、一方が100%正しくて一方が全く間違っているなどということはあり得ません。せいぜい49対51です。だから少数と思われる意見にも耳を傾ける必要があります。

 第二は「適度の懐疑心」です。自分は間違っているのではないかという自分を疑う気持ちです。どんなに取材しようが、それは事実の一部でしかないという一種の諦念がなければいけないと思うのです。ですから慎重にならざるを得ないのです。

 第三は、「鳥の目」と「虫の目」です。長い歴史と広い空間の中で今をとらえる大きな視点と、人々の喜び悲しみを大切にするミクロの視点を同時に持たなければいけないと思うのです。

 そのためには古典を読むことがいかに大事かということを痛感しています。2500年前の『論語』は全く古びていません。2400年前の『ソクラテスの弁明』は今の姿を照射しています。マキアヴェリの『君主論』は政治の本質を突いています。わずか数百円の文庫本で歴史の英知を学ぶことができるのです。

 文芸評論家の江藤淳さんは慶應大学の最終講義で、大学に入ったら肩で息するぐらい勉強したいと思ったと話しました。膝を打ちたいほど心から同感しました。

 私たちの生には限りがあります。であれば、悔いなく全力を尽くすしかありません。極めて個人的な感傷を綴ってしまったことをお許しいただきたいと思います。

 

 はしもと・ごろう▼1946年秋田県生まれ 70年読売新聞社入社 76年から政治部 論説委員 政治部長 編集局次長などを務め 2006年から現職 読売新聞で「五郎ワールド」を連載中 書評委員も20年以上にわたって担当 日本テレビ「スッキリ」 読売テレビ「情報ライブミヤネ屋」「ウェークアップ」などにレギュラー出演 14年度日本記者クラブ賞受賞 著書に『範は歴史にあり』『宿命に生き運命に挑む』『総理の器量』『新聞の力』など多数

 

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