取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
時代の一端と日本の進路(宇田信一郎)2021年12月
戦前から戦後へ新憲法発布と「新政研究会」の設立
日本が近代化を始めた明治維新の時代。アジアの独立国は、日本などは例外で、アジアは全体として、西欧の支配下、有形、無形の影響力の下にあった。戦前獄中にあったインドのネール首相が日本の行動にいかに勇気づけられたかを記したように、アジアの各国の独立の志士たちは、日本の戦前の行動に運命を共にした人がほとんどである。
戦前父、宇田国栄(うだ・くにえ)は、新聞同盟通信社を経営し、東亜国政研究会を組織していたが大東亜戦争の始まった時と終戦時の外相であった東郷茂徳氏の要請を受けて、大日本興亜同盟の代表使節として昭和18年、満州、北支,中支、南支、海南島を訪れ、孫文の志を継ぐとも言われた南京政府の汪兆銘主席とのアジアの発展へ向けての協力の会談に臨んだ。出発前夜、小学低学年の私を真ん中にして寝ていた父が、まさかの時はこの子をよろしくと母に寝床の中で言っていたのを記憶している。
戦後、日本の再生・復活のために、終身理事長となった新政研究会を組織した父は、戦後最初の衆議院選挙に当選し新憲法の発布にも参列した。
保守合同と憲法改正の志
しかし、昭和20年代の半ばから、日本の真の独立のためには、憲法改正と保守合同が必要として、新政研究会は、その先駆的運動を展開した。昭和28年の12月24日義士討ち入りの日に、国家共済会館(現虎の門病院)で岸信介先生、鳩山一郎先生をはじめ戦前戦後の124名のリーダーなど多くの保守政治家の賛同を得て推進大会を開催した。私は麻布学園の高校3年生であったが、終日傍聴した。今では、この推進大会に出席した人はみな他界して私一人となった。ちなみに同じ高校には、2年下に、後の橋本龍太郎総理(第82代)、1年下に福田康夫総理(第91代)がいたが無論出席していない。やはり後輩になる谷垣禎一元自民党総裁は入学前だった。私は、父が主催した会議だったので、出席したのである。この後、岸さんや、父たちは、保守合同の必要性をアピールするため、全国遊説を進め、私が大学1年の夏には、鹿児島の中央公民館で大会を開き、岸さんや、西郷吉之助氏など、参加したリーダーたちが、会合の後、近くの西郷隆盛の銅像の前で、岸さんと隆盛の銅像を握手させ、毎日新聞が、「薩長連合で保守合同」と写真を日曜版に半ページほど掲載した後、保守合同はピッチを速め、いわゆる55年体制が出来上がつた。
資本主義と修正資本主義、福祉国家と社会保障体制
保守合同は、資本主義と修正資本主義の合体とも言え、社会保障体制や福祉国家は、早期に導入されたが、65年たった今日でも、解釈改憲は、かなり進んだが、憲法の条文には、たとえば、「日本は、平和主義で平和国家を目指すが、自衛権のあることは確認する」といつた最小限の改正も実現していない。
60年安保と議事堂、官邸への熾烈なデモ
そののち、父は、岸内閣の時は、議員・総裁補佐役になり、60年安保改正の時には、総理と官邸で実現に苦心した。父の所有のトヨタクラウンのNO.1の車は、総理の車と思われて、デモ隊にひっくり返されたこともあった。当時官邸で、総理を囲んで父も含む7名の議員が徹夜してデモ隊に備えていた覚悟の写真(下)が、文芸春秋に残っている。
岸信介首相(左から4番目)を囲んで
日本の進路を模索するため英国への出発
60年安保条約改正での岸さんや、父の苦心をみていて、翌年の1961年、私は大学卒業後、資本金3番目の会社に勤めて3年目であったが、日本の進路がどうあるべきかを、考えるため、休職にして、英国の1600年創立の東インド会社の末裔であるP&Oラインの3万8千トンの外洋船で英国に向かった。出発時に、後年媒酌をしていただいた岸前首相、藤山前外相から大野駐英大使あての紹介状をいただき、池田勇人首相とも信濃町の私邸でお会いした後、アジア、アフリカ、地中海をへる29日間の航海に4月29日(天長節)に出発した。
LSEでの研究とBBC海外放送勤務
英国では, Cambridge大学の夏季大学に出席した後、関係者からノーベル賞15名、全世界に、元首、首相、EU委員長など50名近くを輩出している、LSE(ロンドン大学政治経済学院)で研究することになっていたが、当時日本の外貨は20億ドル(今は1兆数千億ドル)しかなく、日本から外貨は1人当たり500ドル以上持ち出し禁止の時代だったので、LSEのすぐそばの英国放送協会BBCの海外放送で、朝、ニュースやカレントトピックスを担当した後、お昼ごろからLSEで研究に携わった。
冷戦下核戦争への恐れとキューバ危機
1962年のキューバ危機の時、ソ連の艦隊がキューバに向かっている状況について、日本向けの短波放送をしていた私は、核戦争の勃発を恐れた。仕事を指導していただき、後にNHK専務理事になる野村忠男氏は、戦争中学徒出陣で海軍主計大尉だったが、「君こんなことではそこまでいかんよ」といってくれたが、数年前、返還前の沖縄に1300発の核弾頭があったことをNHKがはじめて明らかにする「沖縄と核」という特番を放送し、私は58年前に杞憂したことを思い出した。
私がヨーロッパにいた1961-63年は、世界はバイポラリゼーションの冷戦下であつたが、
一方で、EC(欧州共同体)が拡大し、取り残された英国の加盟の動きなど国境を超えた巨大社会への動きが今後の世界の考察に役立つと考え、父の新政研究会の機関紙新政研究への報告や、池田首相への私信で日本の将来へ参考にすべき点などを報告したし、また大新聞の欧州総局長へのアドバイスも務めた。その後、中央公論から「政治と人間生活の接辺について」と題して出版した本にまとめた。その序文に岸元首相から政治に共通の底辺がないことが日本の政治にとって最大の不幸であることを宇田信一郎君は指摘しているが、政治家必読の書である。NHK会長からはロンドン留学の所産としてのこの著書は内外を通じて大きな寄与をするであろうことを信じて疑わない。とのお言葉を頂いた。
NHKへの就職、「プロジェクト80」と日本の将来への政策の提案
帰国後、BBCの縁で、NHKに就職したが、国際局、報道局、特別プロジェクトチーム衛星中継班で仕事をしている時、戦争中内閣調査室で敵国の放送を受信していた外国放送受信部が戦後NHKに引き継がれ、そこで私のロンドンからの放送を収録していたことを知った.。徹夜の仕事も多かったが、土、日、赤坂にあった通産省系のマンションの会議室で30歳前の同年配の各省官僚、外交官、若手経営者、上場企業社員、学者、日本経済研究センター研究員たち(後年事務次官、大使、銀行協会長、大会社社長、景気循環学会会長、日銀審議委員などになった人々)と10年後の政策を議論し提案する「プロジェクト80」というグループを作って会合を2年ほど続け最後に報告書を出した。日本の技術はどこまで進むか、日本は孤立しないか。税制体制、間接税、付加価値税の導入など多くの問題を議論したが一つだけふれると、当時ようやく日本の外貨は40億ドルになり、国際収支の天井が経済発展の手かせ足かせになることから脱却しようとしていたが、7-8年後の1975年には128億ドルに達するので、日本として貿易の自由化、円の交換の自由化など開放体制を進めると共に、日本が輸出で恩恵を被ることへの非難に対処すべきという議論があつたところへ、金とドルの兌換性が1972年に停止されたときには、日本は168億ドルの外貨保有国になった。そこで、日本は、貿易の自由化、国際金融の開放とともに、国際社会への経済的貢献制度を作るべきと提案した。これは、佐藤内閣のODA(政府開発援助)に結びつき、そののち世界1の貢献国になる道が開けた。
衛星中継とグローバルなつながり、放送分野ODAの推進
最初の日米間の衛星中継の時、突如Kennedy暗殺シーンになったことで知られている衛星中継班にいた時、69年のアポロの月着陸を米から中継した。背景として、太平洋衛星、インド洋衛星、大西洋衛星がそろい、世界の同時中継が可能になり、翌1970年「人類の進歩と調和」の理念のもとに開催された大阪万博でも世界への中継を担当したので、「グローバルネットワークへの前進」という小論を顕したところ、経営企画室で放送経営の国際的な側面について担当することになった。放送分野のODAでも責任者の一人となり、アジア、アフリカ、中南米へのプロジェクト実施、専門家の派遣、研修を進め、私自身も評価のため、各地を訪問したし、政府の5省会議のメンバーにもなった。当時アフガニスタンでも国営放送のテレビ化のためプロジェクトを進めて専門家も派遣していたが、ソ連が侵入してきて窮地に立ったこともあった。
総理官邸でODAのハードとソフトとの融合と戦略性への提言
その放送分野のODAで、ハードとソフトの融合はテーマの一つだったが、日本のODAは、要請主義だったので、放送で言うと施設とか、放送網とか金目のかかるプロジェクトを日本が負担する。そこに、英、独などが放送番組を援助すると、現地のソフト制作体制が最初は整備されないので、英米の番組が放送されると、現地の視聴者は、初めてテレビが導入されるので、それを見て、日本の協力、援助ということに気が付かない。放送に限らず、ODAにソフト・ハードを融合する戦略性が求められることを、外務省、経団連などに説得し、84年4月21日、戦後の長年の政治上の同志でもあった父に連れられ、中曽根総理官邸で、総理に訴えた(写真下)。私の考えは、了承されたが、そこでもっと重要な発言が父からなされたのは、日米同盟は、ベースだが、冷戦下で米ソ和解の道が開ければ、日本は、国際的により良い環境になるので、ロン・ヤスの関係で打開できないかという点だった。ちなみに当時の内閣秘書課長は、後に事務次官にもなった私の麻布の同窓生で官邸の隣に住んでいたが、私は帰りに立ち寄った時、あえて、その話はしなかった。
中曽根首相(中央)と筆者(左)
米ソ和解への出席とINF条約成立からベルリンの壁崩壊と冷戦の解除へ
1986年2月から3月にかけて、東大の若き学究を帯同して、ODAのハードとソフトのあり方の調査のため、アジア6カ国を訪問した時、マニラでマルコス大統領打倒のクーデターに遭遇しながら、3月初めに帰国すると、60年安保の時のマッカーサー大使が、米ソ和解のためのミッションで訪ソするので、3月末に同行するということになった。大使は、第2次大戦末期ルーズベルトのスターリンあて密書をイラン周りで届けた人なので、ソ連側も受け入れやすかったと思われる。サンクトペテルブルクで合流し、モスクワでは、米のハートマン大使、日本の鹿取大使もレセプションを開いてくれたが、ソ連外務省の会議には、マッカーサー大使一行が出席し、私は同席を認められ、ロシア語から英語への同時通訳をきいた。アフガニスタン侵入などお互いに、非難もあり、必ずしも楽観は、許さなかったが、レーガン・ゴルバチョフのアイスランド・レイクキャビツでの10月の会談、翌年のマルタ島での会議などを経て、87年の米ソ中距離核戦力全廃条約(INF条約)につながり、欧州における核戦争の危険性除去が一歩進んだ。これがその後、ベルリンの壁崩壊につづく雪解け、冷戦の終結に大きく影響した。なお、このマッカーサー大使と10日間の訪ソの時当時ソ連領であつたジョージア(グルジア)のスターリンの生家も飛行機で行って見たが、マッカーサー大使が私に言った言葉が忘れられない。ソ連の対日参戦は、米国の戦略の結果だったが、日本がポツダム宣言を受諾した後、ソ連が樺太、北方領土などを奪取したのを、米国が止められなかったことを日本人一人一人に謝罪したという発言だった。大戦勃発後ルーズベルトとチャーチルが大西洋憲章を発表し戦争の結果領土の拡大は求めないと宣言していることも意識していたと感じた。
時代は変わり、2019年2月の米のINF条約脱退により、ロシア・中国を含む新たな中距離核戦力全廃条約や新START条約の移行、核拡散防止条約(NPT)の充実へなど新冷戦下でヨーロッパ、アジア、中近東など安全保障の在り方が問われている。
LSE国際社会経済フォーラムの設立と英国政府シンクタンクでの講演
1992年NHKの会友となった私は、ちょうどソ連東欧の秩序が崩壊したときだったので、古巣のLSEに行って、世界の動きを見直そうとロンドンにでむいた時、サッチャーさんの顧問もつとめていた学長から日本におけるLSE国際社会経済フォーラムの会長になるよう要請され、LSE側からも、協定のある東大、慶応、一ツ橋や経団連や関係官庁などの趣旨賛同者を連絡するとの申し出でを受け、93年に発足し、以後50回以上、国連大学や、東大,慶応、プレスセンターなどでフォーラムを開催した。また95年には、フランスのレイモンバール首相が主催した21世紀はどのような社会になるかというシンポジウムに招かれ、2001年には、小泉純一郎首相が出席したジェノバでのG7サミットにもリサーチグループのメンバーとして参加した。
LSEフォーラム会長である私は、97年には、英国政府のシンクタンクWilton Parkで「Where is Japan’s Economy really going?」の題で、98年には、Managing World Economyの全体テーマのもと、アジア経済危機について、講演した。97年の時は、11月18日の6か月前に要請を受けたが当日講演の日に、北海道拓殖銀行が破綻し4日後には山一證券が崩壊し、12月になって韓国がIMF管理になり、日本長期信用銀行の危機も続いた。
経済財政諮問会議設立にいたる橋本首相への提言
帰国後麻布以来2年後輩になる橋本首相に、本来失われたバブル崩壊から10年にして抜け出そうとしていた日本がアジアの危機で足踏みしたので、「内閣が、経済政策、金融政策、財政政策について責任をもって把握できるシステム」を創るべきと進言したところ、首相は、経済財政諮問会議を創設し今日に及んでいる。ちなみにその翌年は、Wilton Parkで、後に国際司法裁判所所長になられた小和田恆氏がメインスピーカーで会議が開かれ、私も出席した。その時日本人だけの懇談会で、ある経済学者が、一人当たりの生産性が上がっていけば、日本は人口減をカバーできるのではないかと発言したので、私は、一人当たり掛ける生産関係人口がGDPを決めるので、それだけでは、マネー経済と実体経済のずれから1930年代の世界大恐慌を顕著な例として、循環的に経済危機が世界で起こっていることを考えると、日本の将来は、イノベーションで生産性を上げ,構造改革を進めても、リスクがあるという点を指摘した。事実、その翌年(2000年)に、沖縄で開かれたG8サミットの際、世界の16.8%であつた日本の世界に占めるGDPは、2060年には3%になるとOECD(経済協力開発機構)は予測している。
沖縄サミツトヘ
なお、沖縄サミットの時、国連大学や、外務省と事前のセミナーをした私は、琉球新報のインタビューを受け、写真入りでITを含む今後の世界動向について話をしたが、その記事を森喜朗首相に送ったところ、直筆でお礼を頂き、翌年首相官邸のレセプションに招待され、Wilton Parkでお会いした国際司法裁判所判事になられる小和田さんとも再会した。
リーマンショック前の米英加シェルパへの会議での講演
このような経緯もあって、リーマンショックの起こる年の2008年、英国のアカデミーも後援し米英加のリーダーのシェルパも出席した英国での2月29日、3月1日の会議で日本のバブル崩壊からの回復がどうなされたかについて話すよう日本から招待された。私は、日本は、失われた10年からの脱却のため、金融再編成、不良債権の圧縮、公的資金の導入で再生し危機の起こったときは政府が収拾する姿勢で乗り切っていったが、90年代末のアジアの経済危機で回復への影響を受けた。米国発でバブル崩壊が起こる場合は、日本の比ではない世界への影響が起こるので、少なくとも日本が90年代に失われた10年でとった政策を準備しておく必要があることを指摘した。その3月末、米国で最古の投資会社ベアスターンズが破綻したが、米国は、政府が同社を吸収し危機を防いだ。麻布学園で1年後輩になり、御父上の福田赳夫元総理(第67代)が父の葬儀委員長を務めていただいた福田康夫首相のところにも英国での会議・そののちの経過についてリポートを送っておいたが、その年の夏、洞爺湖でG7サミットが開催された。ブッシュに対し、危機が起こった時の収拾に各国の中銀の信用供与が十分になさればならないことは話し合われたが、むしろ地球温暖化問題についての方がメインテーマとして強調された声明となった。10月になってリーマンとAIGの二つの危機が重なり、いわゆるリーマンショックが発生すると、主要各国の無尽の信用供与により危機が辛うじて回避された。
国家理論と国際社会
私は、1953年大学の政治学会誌に「現代国家の指導理念-―そのヒューマニズム的考察」として、論文を発表し、国家が社会の欠陥を克服して変化する時代の要求にも対処する為には、どのような理念と統治機構を持たねばならないかを論じたところ、他の大学、東大の尾高朝雄、丸山真男、辻清明、林健太郎東大総長、一ツ橋の初代学長中山伊知郎などの諸先生も注目して頂き、その翌年その政治学会誌の巻頭言を書くことになった。私は、当時グローバリズムという言葉は、あまり使われなかったので、国際的総合社会の形成過程という言葉を使って、その中での国家の在り方について論じ東洋と西洋の対決、明治維新以来の日本をはじめ各国特有の歴史的、文化的、政治的、経済的条件に基づく近代化現象が世界的関連性をもつて起生消滅するとともにテクノロジーによるという個人のモナド化、機械の人間か人間の機械化という現代的課題にも直面していることを指摘した。
その考え方は、今まで変わらないが、持続的成長を地球的環境の変化の中で継続し、人間と自然が共生するあり方を今度のコロナ危機は示している。私は、G7/G20のメンバー国を中心とするサミット評価の世界的組織のメンバーであるが、2019年の大阪のサミットでは、プラスチックのごみを海水に流すことで、いかに自然環境に影響するかが指摘された。ODAにしても、従来のインフラ中心から、コロナからの回復のための医療中心、ワクチン開発が要求される。コロナ危機下で、第4次産業革命、働き方革命、DX(デジタル・トランスフォーメーション)、AIやロボット、EV、再生エネルギー、水素エネルギー開拓さらに医療システムの改革が進められる他、2020年11月22日のG20サミット(オンラインで開催されたリヤド・サミット)では、菅首相は、国際公約で50年までに、温室効果ガスの排出量を実質ゼロとする脱炭素社会・グリーン社会を実現すると表明した。
GDPからすると、従来は、ケインジアン的思考で、貿易収支の差額+設備投資+住宅投資+(政府投資+政府消費)が、GDPの規模に影響する、供給側から見た自生的有効需要を決定していくが、コロナ危機は、実際の消費面で、社会経済的活動が不十分なため、コロナ感染が一定規模以下になるまでは、その自生的有効需要を消化しきれない。従って、現在の状況は世界の至る所で財政支出を拡大して、経済活動の不足を補おうとしている。
日本のターニングポイントと2012年の安倍内閣の誕生
2021年夏、ジャーナリスト懇話会での講演冒頭で、私は、2012年12月当時、同月組織される安倍内閣は日本が衰退するか再生するかの転換点を示すことになると述べた私の寄稿文を紹介した。その中で、インフレターゲットや1990年のバブル崩壊以来停滞していた日本が、経済政策をはじめ、労働分配率向上、働き方革命を含む第4次産業化革命へのイノベーション、外交、安全保障をはじめとする日本の戦略、最小限の憲法改正、成長政策をとるための新財源の導入の必要性などを指摘した。安倍政権は20年までにGDPをはじめとして改善を進めてきた。
2020年に内閣を引き継いだ菅内閣は、同じ課題をおっているが、コロナ危機の発生に対応しながら、2050年までの脱炭素社会形成とグリーン革命、デジタル革命を公約として発表した。
2021年夏誕生した岸田内閣は、安倍内閣以来の日本の課題をどう実現するかの使命を背負っている。
コロナ危機と新財源の必要性
コロナ危機に対応するため多大な財政支出が必要であるがその財源として、多くの国家は、国債をもとにして、支出を増大している。
2020年の段階で、米国3兆ドル、日本1.7兆ドル、独1.5兆ドルの支出が決まり、世界的には、IMFは10兆ドルとしている。リーマンショックの翌年金融危機が深刻化した2009年世界GDPに占める財政支出は1.7%に達したが、今回はその2倍以上になるとみられた。数年間でコロナショックから回復するにしても、膨らんだ財政赤字をどう収束するかで、世界経済は、様相を全く変えることになる。
私は、長年、累積債務が拡大しないために、常にプライマリーバランスをプラスにする新財源システムを提案している。この提案は、私のLSEフォーラムの趣旨賛同者であった学術会議で経済政策で選ばれた丹羽春樹氏が提唱し、その学術会議での先輩でハーバート時代の兄弟子、私の先輩で93年LSEフォーラム設立時からの趣旨賛同者で税制制度会長や大学学長も歴任された加藤寛氏が支持した提案で、政府の通貨発行権を一定程度中銀に売り渡し、政府は、利子を生まない政策支出ができる財源システムであるが、これを厳重に運用すれば、累積債務が拡大しない。もし経済成長がプラスであれば、税収の拡大で累積債務を減らすことも可能である。この案は、お二人が亡くなられたので、私が支持提言しているが(その規模は、経済財政諮問会議あたりで毎年決定すればよい)現在の賞賛すべき政府・日銀のアコードに基づく協力関係をもう1歩進める必要がある。現代貨幣理論(MMT)を進めプライマリーバランスにも意を介さないで財政支出を拡大すればいいという説もあるが、MMTの発生元である米国は、MMTでの派手な財政支出のあとで税収で回収するという政策であり、プライマリーバランスを無視し累積債務の増大することを防ぐ財源システムを導入しなければ、安倍内閣発足時の吉川洋財政制度審議会長(東大教授)が指摘したように2060年には8157兆円の累積債務となる。上記、丹羽、加藤案を進めれば、必要な財政支出は十分に行つても累積債務の拡大は防げることになり、実現すれば、コロナ危機後の世界財政の健全化のモデルとなろう。
コロナ危機を持続的成長と地球と共生する国家への転機
今回のコロナ危機で、人類が、災いを転じて福をなすためには、パンデミックや自然災害の危機を克服するために、世界の国家群が、覇権主義を捨てて、地球社会に共存する国家として、国際協力活動や国際援助を進める機会にすることであろう。先に国際司法裁判所の小和田さんの記述のところで示したかったのは、どの国家も、国際法を順守することが求められることだ。そうであれば、南シナ海や、尖閣列島の問題も解決の方向に向かう。WTOに入る時は、必要な条件をのむが、入ってしまえば、守らないとか、過去の歴史的真実も、現在の自国の統治に都合の悪いものは無視するとか、あるいは、有利なものは利用するといったことは、できるだけ避け、人類の進歩と調和が実現されていく国際社会や、地球環境や自然と共生する国家が増えることを、希望したい。日本は自由民主主義の価値を共有する国々、ASEAN、APEC、QUAD、TPPなどを通じ自由で開かれ太平洋を目指しアジア諸国や米欧、EUとも連携して抑止力を維持しながら政治的、経済的安全保障への国際的リーダーシップを示していく事が期待される。
戦後77年間実現しなかった憲法改正の好機
この「時代の一端と日本の進路」で示したかったのは、地球46億年の歴史に比べて100年ぐらいの間の世界と日本の進路のありかたを未来の地球と人間社会の共存へとアウフヘーベンすることであるが、最後に日本が戦後実現しなかつた日本社会の自立のための憲法改正への提言に触れておきたい。
岸田内閣のもとで、2021年10月に衆議院総選挙も終わり、コロナ危機、分配と成長をめぐる経済政策、福祉制度、資本主義と修正資本主義、改革のあり方、外交的・経済的安全保障、憲法改正をめぐる各党の公約や見解などからも今後の方向、政策課題なども見えてきている。
今度の総選挙で一つ気付くのは、1955年保守合同が成立した50年代、ついでの「60年安保の時代」と比べて与野党の共通の問題意識が増していることである。
このような背景のもとでの、今回の論戦でも戦後70年以上実現されなかつた憲法改正の具体的な文言や、コロナ危機に対処するために膨らんだ国家の累積債務をどう解決していくか、成長や安全保障やコロナ危機被害者のための必要な支出は躊躇なく出せても、累積債務は拡大しない財源のあり方までは、突っ込んで議論されなかった。いずれも、私の新政研究会では取り上げてきた課題である。
ここでは、憲法改正の具体的な文言も含めて、その在り方を論ずる。
亡父の尽力した保守合同の後憲法改正は、未実現だが、前述の通り50年代と60年代と比べると、共通の底辺が広がっているので、今度の内閣は長年の日本としての懸案を実現する好機である。
その場合、顧慮すべきは、(1)最小限でシンプルであること(2)両院での3分の2の発議を得られること(3)なるべく多くの政党の賛同を得られること(4)積極的でない政党にも反対することが、党のレーゾンデートル上不利と考えられる文言であること(5)多くの項目を一度に問うのでなく、主権者である国民の投票を仰ぐとき、法律の上位で優先される憲法の大権の中で論理的に賛成されるものであり、国会と各政党が国民の理解を得るため真摯に運動を展開すれば、国民投票で過半数を得ることが確実視されるものでああること(6)今回実現されるべき改正で、将来さらなる改正が必要な時には、矛盾しない文言であること(7)しかも長文でなく、加えて戦後改正が実現されなかった不備をおぎなうものであること(8)デジタル時代、AIを含む新産業革命、イノベーション、科学技術の進歩、宇宙開発にも対応すること(9)感染病流行、自然災害、人為的災害、SDGなど地球環境と人類の共存にも役立つ事(10)インフラを含む社会開発、産業の進化、国としての競争力の発展に資する事(11)人間社会、権力機構、国際関係、地球環境との共存は極限と安定の間を往来するが、常に安定への復元・移動、持続、発展へ寄与するべきこと
以上の考え方から、自衛権の確認の条項を憲法9条に以下のように追加することを対案したい。
Ⅰ案 「日本は、平和主義に徹し平和国家の実現を目指すが、自衛権のあることを確認する」
Ⅱ案 「日本は、平和主義に徹し平和国家の実現を目指すが、自衛権のあることを確認する。自衛隊を防衛力の中心とする」
Ⅲ案 「日本は、平和主義に徹し平和国家の実現を目指すが、自衛権のあることを確認する。
自衛隊を防衛力の中心とする。世界的総合社会の形成過程に留意し、国際間の政治的、経済的、外交的安全保障を推進する」
基本的に上記の考え方で、憲法審査会が国会で早急に審議を進め、2022〜23年度中に国民投票が実施されることを望みたい。
この憲法改正により、世界的総合社会の形成過程でのグローバリズムとナショナリズムの相関関係において、個別及びマルチラテラルな関係変化に対する我が国の立場、科学技術の進歩・イノベーション、国連、国際関係組織への我が国の基本的立場と貢献方向がより明確化される。一方、核兵器、超音速伝導ミサイルなど最先端軍事力への抑止力の形成について、地球環境との共存と持続的な発展とともに人間社会の叡智と調和が必要である。
2021年12月記
宇田 信一郎(うだ・しんいちろう)
G7/G8/G20 リサーチグループメンバー
ロンドン大学LSE国際社会経済フォーラム 会長
新政研究会 代表、
日本経済研究センター特別会員
英国王立国際問題研究所 メンバー
ケインズ学会、景気循環学会メンバー、元NHK会長室国際協力主幹