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臓器移植のパイオニアに密着取材/医学・医療の在り方を学ぶ(木村 良一)2021年6月

 手元に1枚の写真(19㌻)がある。1964(昭和39)年3月27日に東京大学医学部附属病院で実施された日本初、アジアで最初の、腎臓の移植手術の様子を撮影したものだ。手前の手術台に28歳の妻が、向こうには25歳の夫がそれぞれ麻酔をかけられて横たわっている。手術は妻の左の腎臓を摘出して夫の右脇腹に植える生体腎移植だった。

 

◆目標に向かって突き進む生き方

 

 写真を提供してくれたのが、東京女子医科大学名誉教授の太田和夫氏(2010年7月、79歳で死去)だった。いまから20年以上も前のことになるが、東京女子医大を定年退職して東京・八重洲に太田医学研究所を設立した太田氏のもとを数年間毎日のように訪ねては、医学・医療の取材を続けたことがあった。写真はそんな取材の中で接写したものである。

 日本初の生体腎移植の手術のとき太田氏はまだ32歳で、東大医学部第2外科の一介の助手に過ぎなかったが、移植医療に対する熱意を買われて手術をサポートした。しかし、残念ながら手術は成功しなかった。

 その辺りのいきさつは、東京本社発行の産経新聞の連載記事(2001年5月~9月、計45回)や拙著『移植医療を築いた二人の男 その光と影』(2002年8月、産経新聞社発行)に書いているので、まずはその一部を引用しながら解説してみよう。冒頭の接写写真も産経新聞や拙著に掲載している。

 〈手術が終わっても、尿管からしたたり落ちるはずの尿が出なかった。妻の片方の腎臓をもらった夫は、手術から9日目で亡くなった。遺体を解剖してみると、内腸骨動脈から腎動脈にかけて血栓(血の固まり)が付着していた。血栓で動脈が詰まり、腎臓が機能しなくなっていた。慢性の糸球体腎炎で血管自体が弱っていたのだ〉

 〈太田は失敗の原因を追究し、「移植はガンの手術のようにただ単に切り取るような手術ではいけない。もっと、グレードをあげなければならない」と主張した。案の定、先輩たちから「生意気な。それなら、お前が直接やってみろ」という声が上がった。医学の世界はいま以上に年功序列が厳しかった。だが、そんな声に屈する太田ではない。その後、東大病院で生体腎移植手術を次々と執刀し、成功させていった〉

 太田氏には外科医としての天性の才能があった。しかしそれだけではない。自分で目標を決め、その目標に向かってひるまずに突き進む強い意思があった。私はそんな生き方を太田氏から教わった。

 

◆「あのころは大きな夢があった」

 

 太田氏は東大医学部を卒業後、大学院に進み、東京女子医大に移る1970年までの13年間を東大第2外科の医局員として研究に励んだ。しかし、最初は先輩の医師たちから「移植じゃ、メシも食えないぞ」とからかわれ、教授からは「まさか学位(博士)論文のテーマにする気ではないだろうね」とくぎを刺された。

 それでも太田氏は「臓器移植の研究から手を引けと言われたわけでない。早く学位論文を仕上げて研究に専念しよう。医学的にも世界の流れからも、移植が最初に成功するのは心臓でも肝臓でもなく、間違いなく腎臓だ」と決意を固めた。

 環境の厳しさはいくつもあった。東大医学部でも高額な医療機器はなかなか購入できず、人工腎臓の透析装置は有り合わせの材料で独自のものを作ってそれを使った。木造建築の地下にある実験室は老朽化し、暖房もなければ給湯設備もなかった。

 1968年1月には医学部の学生自治会がストライキを始め、それが東大全共闘が安田講堂を占拠する東大紛争へと発展していった。太田氏は移植医療の研究に打ち込めなくなった。

 太田氏は1970年1月、心臓外科の権威として東京女子医大で活躍していた大先輩の榊原仟教授を頼って同大に移る。そこで腎臓病総合医療センターを創設し、1000例を超す腎移植を手掛け、後年は日本移植学会や日本透析医学会の理事長などを歴任する。

 太田氏は日本の移植医療のパイオニアである。昔を振り返って「若気の至りで自ら苦労を買って出たようなものだったが、あのころは大きな夢があった」とよく私に話してくれた。

 

◆脳死判定の現場にも立ち会った

 

 時代は移り、太田氏は1997年3月に東京女子医大を定年退職する。その年の6月17日には臓器移植法が成立して10月16日から施行され、1年半後の1999年2月には日本で初めての合法的な脳死移植が実施された。

 ところで、移植医療の取材の中で大きなテーマが「脳死は人の死か否か」だった。国会での臓器移植法案の審議もこの命題が中心となった。

 私は脳死判定基準(竹内基準)を作った竹内一夫氏に頼み込み、竹内氏が学長を務めていた杏林大学の医学部付属病院高度救命救急センター(東京都三鷹市)で脳死判定を取材して脳死について考えた。

 そのときの脳死判定の模様は、産経新聞(東京本社発行)の1997年6月5日付社会面に詳しく書いた。確かリード(前文)は〈「無呼吸テスト」(アプニアテスト)だけは最後までできなかったが、「瞳孔散大」「対光反射」「角膜反射」を確認する医学的検査が目の前で次々と行われた。全死者の100人に1人の割合で発生するといわれる脳死の現場をリポートする〉とまとめ上げ、本文はおおむね次のように書き出した。

 〈心臓の鼓動と呼吸が止まった60歳代の女性が救急車で運ばれてきた。心臓マッサージなどが施され、心停止から40分後、心拍は再開した。だが、意識は回復せず、脳波も平坦、血圧もかなり低かった。脳死を確認する脳死判定が行われた〉

 脳死とは、呼吸や心臓の鼓動を司る脳幹を含む全脳の機能が不可逆的(もとに戻らず)に停止した状態を指す。脳死が疑われる患者がどんな状態にあるのか、予後(病状の見通し)はどうなるのか。それらを臨床の現場で確認するのが脳死判定である。

 

◆暗い死を明るくする唯一の医療

 

 60歳代の女性患者は人工呼吸器が装着され、胸は一定のリズムで上下に大きく動いていた。人工呼吸器を外せば酸素を肺に送り込めなくなって心臓が止まる。脳死者は人工呼吸器によって心臓を動かしている。人工呼吸器が生んだ新たな死、それが脳死である。

 脳死が人の死であることは医学的に間違いない。ただし、感情的に割り切れない面がある。脳死判定に立ち会ったとき、女性患者は明らかに死んでいる、と私は感じた。しかし、女性患者の家族は「脳死の可能性が高い」と担当医に告げられても納得できず、「何とか助けてほしい」と懇願していた。

 臓器移植法上は「臓器提供に限って脳死を人の死とする」と規定している。それゆえ、脳死移植では必ずドナー(臓器提供者)に対し、脳死か否か、つまり死か生かを見極める脳死判定が厳密に実施される。だが、裏を返すと、臓器提供しない場合には脳死は人の死でなくなり、医学的には矛盾する。

 人の死を以て人の命を救う移植医療には、どうしても死生観が付きまとう。脳死は一律に人の死だ、と強要するのはよくないと思うが、人の死であることを理解しようとしないのも困る。

 かつて太田和夫氏は私にこう話していた。

 「死とは、暗いものである。これは仕方がない。だが、その死を明るくすることができる唯一の医療として臓器移植がある」

 「死によって人格はこの世から潰え去る。しかし、移植された臓器は生命の輝きを失わずに他人の体の中で生き続ける」

 太田氏からこの話を聞いたとき、医学・医療のひとつの在り方を教えられた気がした。

 

きむら・りょういち

 1956年生まれ フリージャーナリスト・作家 日本医学ジャーナリスト協会理事 日本臓器移植ネットワーク倫理委員会委員 三田文学会会員 83年産経新聞社入社 社会部記者や論説委員を経て2018年退社 その間ファイザー医学記事賞などを受賞 著書に『臓器漂流』『パンデミック・フルー襲来』『新型コロナウイルス』などがある

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