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自民党幹事長・野中広務さん/冷徹と情の交錯が魅力(小村田 義之)2021年1月

 政治記者として、失敗談を挙げればきりがない。野中広務さんに初めて会ったときのことも、なぜか全く覚えていない。

 1999年秋、官房長官から自民党の幹事長代理になったときに、担当になった。翌年春、小渕恵三首相が急逝し、森政権が発足すると、幹事長に。秋の「加藤の乱」が収束し、年末に辞任するまで1年以上、お付き合いした。

 といって、野中さんに懐深く食い込んだわけでも、とくに親しかったわけでもない。ただ、時折放つ一言ひとことが印象深く、今もなお、胸の奥に残る。

 高輪の議員宿舎の食堂で各社の番記者と一緒に朝食をとり、夜は部屋で懇談する。週末には地元・京都まで同行し、喫茶店で言葉を交わした。休みもなく、朝な夕な「野中漬け」の日々である。

 

■「情報の濃度が足りん」と一蹴

 

 だが、他社と横並びの取材で事実に迫るのは、やはり難しい。懇談が終わると携帯に電話し、こちらの見方をあてるのが常だった。このとき、モノを言うのが取材の厚みだ。甘い質問は「情報の濃度が足りん」と拒まれた。

 2000年春、解散・総選挙の日程を確認しようと電話をかけ、「この日ですよね」とあててみたら「ほお、アホやね」と一蹴された。「皇室の日程を確認したか。その日は無理なんや」と教えてくれたのは、経験の乏しい記者への温情だったのか。

 露骨な情報操作もあったが、周辺取材を重ねていれば、正直に答えてくれることも多かった。冷徹な仕事師にして、情を解するたたき上げの苦労人。二つの顔が交錯するのが魅力でもあった。

 

■「幹事長辞任」で特報と誤報

 

 年末に幹事長を辞めると確信したのは、10月のある夜のことだ。電話でそう伝えると「お前だけやな、俺の気持ちを分かっているのは」と言う。翌日の朝刊を「野中幹事長の退任濃厚・12月改造時」という特報が飾った。

 実際、年末に辞任したから、この記事は正しかった。ところが、その後の流れを見誤り、痛恨の誤報を招くことになる。

 歯車が狂ったのは、11月に「加藤の乱」が起きてからだ。自民党の加藤紘一元幹事長が森内閣の打倒をめざしたが、野中さんら党執行部が切り崩し、鎮圧した。勝利に高揚する様子を間近に見て、この人も権力の魔力に勝てなかったかと、軽い失望を覚えていた。

 幹事長は続投だな、と思った。「かねて辞意を漏らしてきた野中広務幹事長は、政権基盤が不安定な現状を踏まえ、首相の留任要請に応じて続投する」と11月末に軌道修正した。掲載の前夜に電話すると「ふーん」と流された。

 翌朝、再び電話して「記事はどうでしたか」と聞くと「全然ダメやね」と言い放つ。驚いて部屋に押しかけたが、何も答えない。立ち去ろうとする野中さんの膝を下からつかまえて「何が違うんですか」と食い下がったら、「言われん」と足で振り払われた。

 それでも辞任すると思わなかったのだから、思い込みとは恐ろしい。翌日、野中さんは、ふらりと首相官邸に姿を見せ、取り囲んだ番記者に「辞めます」と告げた。瞬間、視界が白くなったのを、よく覚えている。政治記者としてはもう終わりだな、と。

 加藤の乱から20年が過ぎた。18年1月、野中さんが92歳で亡くなって、はや3年である。

 (こむらた・よしゆき 朝日新聞社論説委員)

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