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韓国元プロ野球選手・李鍾範さん/19年ぶりに日本に戻った野球の天才(峯岸 博)2020年12月

 李鍾範さんが今年2月に中日ドラゴンズの「研修コーチ」になったと聞いたとき、「日本に戻ってきたんだな」と胸に熱いものがこみ上げた。葛藤を乗り越えての決断だったに違いない。

 2006年4月1日。雨が降りしきる韓国南西部・光州市の無等総合競技場野球場のスタンドの一角で、私は、当時35歳で起亜タイガースに所属していた李さんと向かい合っていた。

 韓国のプロ野球ファンの間に「投手は宣銅烈、打者は李承燁、野球は李鍾範」という言葉がある。それほど優れた野球センスで「野球の天才」の名声をほしいままにしたスーパースターだった。

 27歳の絶頂期に「日本で腕を試したい」と破格の移籍金で中日に入団した。走攻守ともに周囲の期待を上回る働きで、オールスターのファン投票でもセ・リーグ遊撃手部門のトップを走っていた。

 

■死球で不調に、文化に違和感も

 

 アクシデントは突然襲ってきた。試合で内角球をよけきれず右肘を骨折。長期のつらいリハビリに耐えて復帰してもフォームがバラバラに。ストレスで円形脱毛症になった。4年間のプレーで調子が戻らないまま2軍落ちも経験し、01年に退団した。「傲慢とも言えた自信」は失われた。

 帰国後は光州でインタビューした年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で活躍し、「王ジャパン」を土俵際まで追い詰めたのが印象的だ。それが最高の瞬間だったと12年の涙の引退会見で語り、最もつらい記憶の一つにはくだんの死球を挙げた。

 日本で地獄を味わった李さんの目に日本野球がどう映っていたのかを聞きたかった。

 「日本の選手に勝つ姿を韓国国民に見せたい」とずっと思い続けたという。「負けるはずがない」のに再起できなかったのは死球のせいだけではない。「日本の文化に適応できなかったから」と振り返る。日本中が巨人の優勝を願うようなムード。特定の選手に有利な判定。同じ外国人選手の間に存在する待遇差。メディアの取材に誠意をもって対応しない選手……。そんなところにまで日本野球への違和感を覚えた。

 半面、選手個々の高い技術やデータに基づいた緻密な作戦など、韓国が追いつけない部分がたくさんあると感じた。離日から5年。「うまくやっていれば今も中日でプレーできていたかも」。悔しさが雨ににじんだ。「いろいろな夢を見ながら第二の人生を設計したい」と最後に話した李さんと握手して別れた。

 

■50歳、古巣の中日でコーチ修行

 

 日本嫌いになったら寂しいな、そんな私の憂慮は浅はかだった。努力の人とも周囲から評された李さんはコーチ業を経て50歳を迎える今年、日本の野球を学びたいと中日ドラゴンズに連絡を入れた。「すべて自費で勉強したい」と自ら申し入れ、球団も「日韓野球のパイプ役となる人物」と歓迎している、と地元紙が伝えた。

 9月まで2軍に帯同し、若手選手とともに合宿所で暮らしながら練習の仕方や指導法などコーチ修行を積んだ。19年前につかみ損ねた日本野球を韓国の次世代に注いでいくのだろう。名古屋生まれの息子、李政厚選手は昨秋のプレミア12で韓国代表チームの一員として来日し、日本の野球ファンに雄姿を見せた。

 日本研修中の李さんの写真に心が温まる。光州での精悍な顔つきは穏やかな笑顔になっていた。

 

 (みねぎし・ひろし 日本経済新聞社編集委員兼論説委員)

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