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元北朝鮮偵察総局エリート工作員/「金王朝の話? 知ろうとするな」(鴨下 ひろみ)2020年11月

 彼とは2年前、「北朝鮮でかなりの地位にいた脱北者が今、韓国にいる」と知人に紹介され、会うことになった。一見、どこにでもいる「気のいい韓国のおじさん」。それが第一印象だった。だが口を開くとその印象は一変した。

 「金正男(金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄)暗殺は北朝鮮にとって最も簡単なテロ作戦だった。彼の行動は全て把握していた」

 北朝鮮の工作活動について尋ねると、目つきが鋭くなり、威圧感がにじみ出てきた。

 もとは朝鮮人民軍傘下の工作機関・偵察総局の幹部で、金委員長に政策を提言する立場にあった。工作員の中でもエリート中のエリートという自負を持つ。米朝首脳会談の段取りを整えた金英哲副委員長ら党高級幹部とも親しかったそうだ。

 複数の名前を使い分け、本名がわからない。ここでは親しみを込めて「おじさん」と呼ばせていただく。

 

■張氏処刑後、粛清恐れ脱北

 

 おじさんは、金委員長が叔父の張成沢氏を処刑(2013年)した後、家族とともに脱北を余儀なくされた。張氏との関係が深く、自身も粛清を恐れていたためだ。

 偵察総局幹部の脱北は初めてだった。一部メディアが報じると、韓国国防省や統一省もこれを認めた。しかし、おじさんが韓国メディアの取材に応じることは一切なかった。その理由を尋ねると、「韓国メディアの北朝鮮報道は嘘ばかり。信用できない」とバッサリ切り捨てた。酔えば、韓国批判が止まらない。「韓国の政治はカオスだ。やることなすこと理解できない」

 おじさんは欧州や北京など数カ国に駐在した経験があり、海外生活に慣れている。日本への拒否感はなく、脱北後は家族を連れて何度か日本旅行を楽しみ、日本酒や和食を好むようになっていた。

 平壌の特権階級の生活とはどんなものか。〝金王朝〟に関し、我々の知り得ない情報を持っているのではないか。何度も聞き出そうと試みたが、おじさんはそっけなかった。

 「あの一族の話は知ろうとするな。知っても他言するな」。守れなければいつ何のきっかけで、失脚するかわからない。それがエリートの鉄則だった。

 実は、おじさんは平壌で金正男氏とも何度か会い、酒を飲んだ仲だそうだ。しかし、すぐに付き合いを絶ったという。おじさんの目には金正男氏が、父(金正日総書記)の威光を笠に着たゴロツキのように映ったからだ。

 

■「工作活動を明かせば殺される」

 

 おじさんは実際にはどのような工作活動に携わったのか。最も聞きたいのはこの点だった。でも口は堅かった。「もし私がそれを明かしたら間違いなく北の工作員に殺されるだろう」

 おじさんと話していて感じたのは、北朝鮮のエリート教育が骨の髄まで染みこんでいるということだ。体制の問題点を自覚しながらも、西側諸国の価値観に完全には同調できない。

 今年の秋夕(韓国の旧盆)、おじさんは韓国でどう過ごしたのだろうか。

 「秋夕や旧正月が一番寂しい。ここには里帰りできる場所も、会える人もいないから」

 おじさんが心のよろいを脱ぎ捨て、いつの日か本音を語ってくれるのを心待ちにしている。

 

 (かもした・ひろみ フジテレビ国際取材部長)

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