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米上院議員・バーニー・サンダース氏/気さくだった「社会主義市長」(梅原 季哉)2020年6月

 あっけない幕切れの中、「敗軍の将」の語り口は率直だった。

 4月8日、アメリカ大統領選で民主党指名候補の座を争っていたバーニー・サンダース上院議員が選挙戦からの撤退を表明した。

 序盤の優位を、バイデン前副大統領に崩された。最後は、コロナ感染拡大で、集会など選挙運動が封じられる中、「勝利は不可能」と認めざるを得なかった。バーモント州の自宅から、たった一人でリモート中継に臨んだ。

 私は東京で声明を視聴した。党員集会が開かれたアイオワ州を訪れ、サンダース支持の若者たちの熱気を目の当たりにしたのは2月のことだ。これほど短期間で、この落差は予想もしていなかった。

 それでも画面の中のサンダース氏は真剣なまなざしで語りかけていた。「この選挙戦は終わったが、我々の運動はそうではない」

 本領発揮だな、と思った。社会運動家というべきスタイルは前回2016年から変わらないし、彼の政治歴を通じてのことだ――。

 

■留学時代、40代の本人に対面

 

 思い出す場面があった。1985年、ニューヨーク州最北部にある小さな大学で、私が交換留学生として学んでいた時のことだ。

 「社会主義者のバーリントン市長来たる」。そんな告知を学内で見かけた。バーリントンは隣州バーモントの州都で、米国の尺度で言えば、そう遠い場所ではない。

 当時はレーガン政権2期目。冷戦は終わる気配もなく、米国の政治社会の風潮としては「共産主義者」とか「社会主義者」というのは、異星人扱いも同然のレッテルだった。それを自称するなんて、どんな人だろう、という好奇心から、顔を出してみたのだった。

 まだ無名の一市長だったサンダース氏に用意された会場は、小教室だった。その時の描写を、私が翌年帰国してから、母校のミニコミ紙上で書いた記事から、引く。

 「黒縁めがねにノータイというところが強いていえば社会主義者らしい?と思わせられるくらいで、すてきなおじさんといった印象が強い。でもいざ話を始めると、気さくな中にも何か熱っぽいもののある話しぶり」……。78歳となった今のサンダース氏は、たたみかけるように怒りをぶつける演説が特徴的だが、その頃は、むしろ軽妙な語り口だった。

 

■格差への憤りは終始一貫

 

 なぜ「社会主義者」になったのかを問われると「アメリカは自由な社会といわれているが、その『自由』は、実は多くの人にとって経済的に手に入れられない」と指摘した。格差社会への憤りは、彼の終始一貫した姿勢だろう。

 サンダース氏は政治家としてはずっと「独立系」として活動し、最近まで民主党の党籍すら持たなかった。私は35年前、「地方で何ができるんですか」と、やや意地悪な質問をした記憶がある。彼は「グローバルに考え、ローカルに行動する」と説き、地方からこそできる改革があると強調した。

 私は記事をこう結んでいた。

 「やはり米国の政治は、民主党か共和党かの二者択一でしか進んでいかないのだろうか。第三党の時代がやってくるとしたら、そのときバーニー・サンダースは何をしているだろう。市長か、ただの人か、はたまた大統領か……」

 その予想は、外れた。だが、コロナ禍の中だからこそ、サンダース氏の存在感は、そう簡単に薄れることはない。そんな気がする。

 

 (うめはら・としや 朝日新聞社論説委員)

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