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真珠湾攻撃と日本人スパイ/その人は吉川猛夫 (田中 信義)2020年3月

1941327日、日本郵船『新田丸』がホノルル港の8番ふ頭に着岸した。船からやせ型29歳の青年が降りてきた。黒髪の青年は、日本総領事館の副領事・奥田乙治郎から首飾り(レイ)をうけとった。乗客名簿にはこの青年は「森村正」と記されていた。偽名であった。本名は吉川猛夫(よしかわ たけお)である。税関を通りヌウアヌ通りの2階建ての日本総領事館に案内された。この総領事館で総領事の喜多長雄に挨拶した。森村は「chancellor」のタイトルをもらった。一等書記官だ。これは喜多と奥田だけが知っていた役職で、吉川の本当の任務ではなかった。事実、吉川は退役の海軍少尉だった。父親は警官、自身は1933年海軍兵学校出身。最初は軍艦、次いで潜水艦に勤務、さらにパイロットの訓練を受けた。途中、吉川は胃の病気にかかり退役する。これで吉川の輝かしい経歴はおわった。その後吉川は諜報員の訓練を受ける。そしてホノルルに赴任した。この時から吉川の第二の人生が始まった。

 

■スパイとしてホノルルへ

 

吉川の宿舎の近くには、日本茶屋「春潮楼」があり望遠鏡が2基あった。近辺が一望できた。吉川はなるべく真珠湾やヒッカム空軍基地周辺ではスパイじみた行動を避けていた。吉川は作業服を着てアイエアにあるトウモロコシ農園に小型バスで通っていた。とうもろこし農園は真珠湾基地の北側にあった。近くの丘から西南にある真珠湾内の潜水艦の基地などを見下ろすことができた。

 

夏の家(旧 春潮楼

 

『真珠湾の真実』(原題:DAY OF DECEITThe Truth about FDR(ルーズベルト)and Pearl Harbor)という本がある。これによると、吉川はホノルルに赴任する前からアメリカ当局から行動を監視されていた。奥田副総領事が送った暗号電文が米当局に解読され、日本が真珠湾の軍艦の隻数に関心を持っていることが明らかになった。奥田のスパイ報告の電文はH-4の分類で東京に送信されていた。それをサンフランシスコの米陸軍通信隊が傍受した。こうした中で吉川の行動もアメリカ当局から最初から監視されていたという。1941年1月6日の暗号文が傍受され解読された。このなかでハワイ総領事館が1940年月12月に送ったスパイ報告に誤りがあったので、もっと正確な情報を得るために吉川をスパイ要員として派遣したことが明らかになった。

 

吉川はあえて軍事基地に潜入しようとはしなかった。カメラもメモも使わず、知りえたことは頭の中に叩き込んだ。情報は現地の新聞からも得た。一方アメリカの情報機関は、法律で領事館の通信施設に深入りすることは禁じられていた。領事館員がアメリカの盗聴を気づいていると知ってから電話盗聴も無意味だという。また、あまり厳しい態度をとると日系ハワイ人の反感を招きかねないと恐れたという。

 

 私はこの本で吉川猛夫という名を知った。真珠湾攻撃計画にあたって、湾内のアメリカ艦船の配置などの情報を逐一報告していたという。興味を持った。

 

■丘の上の春潮楼

 

私は2001年から2004年までホノルルの大学に勤務した。ちょうど9.11事件の直後に赴任した。ホノルルの町は異常な雰囲気につつまれていた。車には星条旗の小旗が。町中にサイレンが鳴り響いていた。パールハーバーのアリゾナ記念館を訪れた。真珠湾攻撃で撃沈された戦艦アリゾナ号の上に建立された、真珠湾攻撃で犠牲になった兵士の慰霊記念館である。ここには、真珠湾攻撃の際のいろいろな資料が展示されている。記念館を訪れると必ず見せられるのは、真珠湾攻撃の記録映画だ。すさまじさに圧倒される。ここでは当然のことながら日本はけしからんという姿勢だ。記録映画が終わり外に出た時、アメリカ人の冷たい視線を背中に感じた。その時やはり戦後はまだ終わっていないと感じた。

 

吉川猛夫は、この真珠湾攻撃でどんな役割を果たしたのか。知りたいと思った。今年2月、私はハワイを訪れた。私は吉川がよく訪ねたという真珠湾を見下ろす丘の上にある日本茶屋「春潮楼」を探した。「春潮楼」は終戦でアメリカに没収されており、すでになかった。代わりに同じ場所には新しく日本茶屋「夏の家」が出来ていた。当時は十数軒あった日本茶屋街もすべてなくなり、この「夏の家」だけが面影を残していた。春潮楼の歴史は古い。1921年、四国出身の藤原タネヨが買い取り、日系人のための日本茶屋を始めた。戦後、春潮楼は没収され消防本部に変わった。ところがどうしても日本の文化伝統を伝えたいとの思いで、藤原家は春潮楼の再建に乗り出し、1956年に名前を「夏の家」と変えて現在に至っているという。建物は昔のままで大広間が3部屋あり、300人の宴会もできるという。地元の著名人が宴会を開いているという。壁には小錦や松方弘樹や米軍将校の写真が貼られていた。米軍からの感謝状もあった。

 

この春潮楼に吉川はたびたび訪れ、食事をしたり休息をとったりしていたという。私は従業員の美沙さんに中を案内してもらった。二階の大広間から真珠湾が一望に見下ろせた。吉川はここから望遠鏡で湾内の艦船の状況を調べていたのだ。庭園を回ってその望遠鏡を探した。見つからなかった。美沙さんに尋ねた。「ここにあります」と示されたのは寿司バーの壁だった。壁にくだんの望遠鏡は飾ってあった。望遠鏡は観光用の単純な代物だった。吉川はこれを覗いて真珠湾内の艦船の配置図を東京に送っていたのだと思うと不思議な感じだ。もちろん吉川の情報だけで真珠湾攻撃が始まったわけではあるまいが。

 

寿司バーの壁に飾られた望遠鏡。手前は筆者

 

 

■沈黙を破ったインタビュー

 

私はホノルル滞在中、ハワイ大学ハミルトン図書館を訪れた。「吉川猛夫」に関する資料を探した。

 

The Top Secret Assignment』~by Takeo Yoshikawa with Lt. Colonel Norman Stanford という文献が見つかった。興味ある資料だった。これによると戦後、吉川は日本に戻ったが戦時中のことは一切沈黙を守ってきた。幾多の取材申し込みにも応じなかった。口を開いたのは戦後8年たった195312月、地元の愛媛新聞とのインタビューだった。

 

吉川は沈黙の理由を「自分の諜報活動には多くの人が関わっていたので迷惑が掛かるのを恐れた」と述べている。この記事は大きな反響を呼び、ニューヨークタイムズが同年12月9日の紙面で取り上げた。吉川はハワイでの諜報活動について、潜水して艦船の動きを調べたり、タンタラスの丘から真珠湾を見下ろすなど具体的に述べているが、中でも役にたったのは春潮楼だったという。春潮楼が最も楽しい観測地点だったという。吉川は今もこの春潮楼が残っていれば、この茶屋の畳の部屋でもう一度芸者たちと話をしたいなど、懐かしそうに語っている。もちろん名前も身分も目的も明かさずに通っていた。茶屋の人たちは一体何をしているんだろうと不思議に思っていたという。

 

吉川は194111月末、79項目の秘密の質問状を東京から受け取る。その中で、まず「真珠湾内で最も多くの米艦船が停泊している曜日は?」に吉川の返事は「日曜」。「真珠湾上空を大型水上パトロール機はどのくらいの規模で飛行しているか?」には、「日没と夜明けに10回程度」と答えている。そのほか空軍基地の場所や対潜水艦ネットなどの詳細な情報を要求された。吉川はこれに答えた。

 

■「妻だけが尊敬してくれた」

 

12月6日の夜、最後のメッセージを暗号で送った。「エンタープライズとレキシントンはパールハーバーを出港した」と。その夜、吉川は総領事館の庭園を散歩した。遠くパールハーバーの方は明るい光を放っていた。哨戒機のパトロールの音も聞こえなかった。宿舎に戻り朝までぐっすり眠った。

 

7日午前7時55分、朝食を取っていた時最初の爆撃が始まった。真珠湾は火の海となった。

 

吉川は直ちに庭で諜報活動の資料電文コピーなどを燃やした。彼がFBIにつかまった時、スパイの証拠は見つからなかったという。

 

1942年、吉川は外交官捕虜交換で帰国。故郷で菓子屋を開いたが失敗。世間から原爆を落とされたのは吉川のせいだといわんばかりの冷たい批判を浴びた。吉川は「妻だけが私を尊敬してくれた。彼女は私をa man of historyだ(歴史に残る人物)と思っていた」と、あるインタービューで語った。

 

吉川は1993年老人ホームで亡くなった。80才だった。私はかつての春潮楼、今の夏の家の庭から真珠湾を眺めながら、吉川のスパイはどういう意味があったのだろうかと思った。

 

(たなか・のぶよし NHK出身 2020年3月記

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