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台風で三鉄運休、3月20日全面再開へ/節目なき悲しみに寄り添う報道を(岩手日報社 刈谷洋文)2020年3月

 岩手県沿岸部を走る三陸鉄道(通称・三鉄、中村一郎社長)は東日本大震災からの被害を乗り越え、2019年3月にリアス線を全線開通した。被災した沿岸部をひとつなぎにするローカル鉄道は全国の注目を集め、観光や定期利用者が前年度から倍増。順調にスタートを切った半年後、台風19号に襲われた。

 

 記録的豪雨で土砂が流れ込み、全線163㌔のうち77カ所が被災。トンネルが埋まり、路盤が約20㍍にわたって流失した箇所もあり、約7割の区間が運行休止に追い込まれた。

 

 三鉄はNHKの連続テレビ小説「あまちゃん」の効果もあり、県民にとって復興の象徴的存在だ。東日本大震災から8年半が経過し、三鉄だけでなく、国や県による復旧事業が総仕上げの段階だったが、台風19号は沿岸部を狙うように被害を巻き起こした。中村社長は「三鉄も地域も、これからというタイミングなのに。無念だ」と言葉を振り絞った。

 

■「かさぶたが分厚くなっただけ」

 

 大切な人を失い、古里をも破壊された人々が必死の思いで積み上げたブロックを無慈悲に崩すような災害―。再建した自宅が再び被災し、震災直後の精神的ショックがよみがえる住民もいた。取材で各地を回る中で、自然の理不尽さに言い様のない怒りと切なさが渦巻いた。

 

 震災から時間だけは過ぎたが、住民の傷が完全に癒えたわけではない。本県沿岸南部に位置する大船渡市出身の私自身も、震災直後に駆けつけた古里の惨状がいまだに胸に焼き付いている。家族を亡くした人々の苦しみはその比ではないだろう。

 

 普段の取材でも、震災犠牲者の遺族に話を伺う機会は多い。事業再開や地域づくりなど前向きな活動に目が向きがちだが、あの日の絶望にとらわれたままの住民は確実にいる。

 

 ある遺族は「心の傷が治ったわけじゃない。かさぶたが分厚くなったんだ」と自らを語った。普段は明るく振る舞っていても、ふとした弾みでかさぶたが剥がれ、傷口が痛みだす。報道に携わる一員として「『復興』『節目』という言葉を周囲に押し付けてはいないか」とはっとさせられた。ハードなど復旧事業の期限はあっても、悲しみに節目はない。「住民に寄り添う」という言葉を形骸化させず、真摯に向き合う姿勢が地元紙には求められている。

 

■防災教育で県と大学との連携も

 

 一方で、災害の記憶風化は進んでいる。被災地の街並みは新たにつくり替えられ、大半の小学生は震災を実体験としては覚えていない。東北以外では報道の機会も格段に少なくなっている。甚大な被害を引き起こした大災害を、せめて教訓として後世に残さなければならない。

 

 現場で取材する弊社記者も震災後に入社したメンバーがおよそ半分になった。外部への発信だけでなく、震災取材の経験や意義を若手に引き継いでいくことも重要な課題だ。

 

 弊社は現在、県教委や岩手大学と連携し、震災の経験を児童生徒に伝え、防災教育を強化するための現場調査に取り組んでいる。あの日の記憶をつなぐことが、未来の命を守ることにつながってほしい。

 

 冒頭で紹介した三鉄は国の財政支援も決まり、3月20日の全線運行再開に向けて、復旧事業が最終盤を迎えている。区間の一部が再開するたび、沿線住民が駅ホームに集う。「おかえり三鉄」「待ってたよ」と書き込んだ小旗や横断幕で列車を迎える光景に胸が熱くなる。

 

 時間は不可逆で元には戻らない。震災前の古里を取り戻すことはできないが、新たな古里が少しでも良い方向へと進むように、これからを築くことはできるはずだ。住民の悲しみも希望も分かち合い、一緒に未来へのレールを歩んでいきたい。

 

かりや・ひろふみ▼2004年入社 遠野支局長 報道部などを経て 19年4月から宮古支局長

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