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「あの日」の記憶残し伝えたい/被災地の思いの強さを実感(日本経済新聞社編集委員 滝順一)2020年3月

 日本記者クラブの宮城取材団は2月17日、18日に東日本大震災から9年目を迎える宮城県を訪れた。「あの日」の記憶を残し伝えたい被災地の思いの強さを改めて実感した。「復興」と地域の思いとのずれにも気付かされた。

 

 南三陸町の震災復興祈念公園で、西條美幸さんは海際の町営住宅に高校の部活仲間と取り残された一夜を語った。4階建ての屋上にまで海水が及び「死ぬんだと思った」。現在は観光協会で語り部を務める。「お客さんにも元気付けられ前向きになれた」と話す。

 

■南三陸、女川、大川小跡を訪問

 

 河北新報の防災担当記者、須藤宣毅さんは震災後に防災ワークショップ「むすび塾」を立ち上げた。「高台に逃げろというのはリアス海岸の話だろ」。高台などない平野部で津波に襲われた住民が放った言葉が「深く刺さった」。震災前の報道の限界を痛感し地域密着の活動に転じた。

 

 市街地を丸ごと海から離れた高台に移転した南三陸町と、土地をかさ上げし海を眼前にした場所に商店街を再構築した女川町は、方向性は違うがともに再生の先進的取り組みだ。

 

 「警報が出ても逃げる必要がない安心安全な町」(佐藤仁・南三陸町長)。「地方社会に新しい価値を見いだすのが女川の復興の本義」(須田善明・女川町長)。明確なビジョンの下で足どりには確かなものがあるが、両町とも高い人口減少率が課題だ。

 

 南三陸ホテル観洋の女将、阿部憲子さんはホテルを避難所にした当時の苦労を語るとともに、県が導入を目指す宿泊税の影響を「非常に心配。納得がいかない」とする。「復興政策と地域の齟齬」(木村正祥・河北新報報道部長)の一端だろう。

 

 最後の訪問地は児童74人が死亡・行方不明の石巻市立大川小学校跡。教員も10人が亡くなった。

 

 「ここは命が躍動する学校だったことを想像してほしい」と「小さな命の意味を考える会」代表の佐藤敏郎さん。6年生の娘を亡くした。

 

 行政の責任を問う訴訟で遺族側の勝訴が確定、校舎の保存も決まった。しかしその活用法の議論は始まらない。「防災は津波を想定することではない。その先にある命が助かる未来を想定をすることだ」。佐藤さんの問いかけの射程は長い。

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