ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


旅の記憶 の記事一覧に戻る

上海センチメンタル・ジャーニー ~アグネス・スメドレーの寓居を訪ねて(千野 境子 )2019年9月

中国革命を世界にいち早く紹介したことでエドガー・スノー(19051972)とともに知られるアメリカ人ジャーナリスト、アグネス・スメドレー(18921950)。今ではジャーナリズムの世界に於いてさえ「スメドレー、フー」かもしれない。でも私には少々恩義のある先達で、今年5月、25年ぶりに上海を訪れた際に彼女の寓居へ足を伸ばした。

 

スメドレーは張作霖爆死事件から約半年後の1928年暮れ、独フランクフルター・ツァイトゥング紙の特派員として中国の土を踏んだ。上海へ移ったのは明けて295月のこと。革命に共感し社会主義者たちと親交を重ねるスメドレーは、次第に当局から監視されるようになり、転々と移り住んだ。

 

案内書には初期、中期、後期と三か所の寓居が記されていたが、私が訪れたのは最初に住んだ呂班路185号の呂班公㝢(重慶公㝢)だ。新天地と呼ばれる地区にあり、有名な復興公園(旧フランス公園)の対面なので探しやすいと思ったこと、また付近には中国共産党の第1回全国代表大会の会場や大韓民国臨時政府(初期)建物など興味を惹く歴史的建物が多かったからである。

 

実際、公園を散策し交差点を渡ると、目指す寓居が入ったビルはすぐ見つかった。大正ロマンを感じさせるような石造りのレトロな共同アパートで、入り口には「上海市優秀歴史建築」のプレートとともにスメドレーの住んだ家であることが記されていた。

 

受付に声を掛けて中に入ると、裏庭が広がっていた。観光客もここまでは入って来ない。昼下がりで住人は皆、出払っているのかひと気のない庭を散策しながら、私は洗濯物が翻る2階を見上げた。スメドレーは2階の一室に身を寄せたのである。

 

 

 

 アグネス・スメドレー氏の寓居として知られる「重慶公寓」の裏庭

 

 

活動的なスメドレーは旅装をここに解くや否や、行動を開始したに違いない。後にアメリカで出版した『中国の歌ごえ』の中で「中国にいた全期間を通じて、一番大きな影響を受けた人」と書いた魯迅に出会ったのも、ここ上海のレストランだった。あるいは恋人だったゾルゲ事件の尾崎秀実とは何時、どこで出会ったのか?など等、私は他人サマのアパートの裏庭に入り込み、しばし懐古に耽ったのだった。

 

スメドレーへの少々の恩義とは、40年以上も前に遡る。

 

《面接はもう終わりに近づいていた。事務局長のキャロライン・ヤンが優しい声でいった。「ミス・チノ。あなたにはだれか尊敬するアメリカ人がいますか」「アグネス・スメドレー。中国革命の意味をだれよりもいち早く世界に紹介した女性ジャーナリストとして、彼女は素晴らしい先達だと思います」》(拙著『ワシントン シングル・ウーマン』から)

 

その答えに今度は男性審査員が「では男の人ではどうですか」と聞いた。私が窮して「そのような素晴らしいと思える男性に一人でも多く、この試験にパスした暁に、アメリカで出会いたいと思います」と答えると、審査員は皆一斉に声を上げて笑い、面接は終了した。

 

かくて私はフルブライト・ジャーナリスト留学の切符を手にしたというわけだった。

 

 実のところ私はスメドレーを人前で語れるほど知っていたわけではない。ただ、その頃同じ新聞社の先輩女性記者が翻訳出版したスメドレーの『中国紅軍は前進する』を読んだばかりで、この日米二人の女性の先達がとても眩しく、憧れてもいたのである。スメドレーとコミンテルンとの関係やマッカーシズムの嵐に翻弄された末の客死などを知っていたら、果たして面接であのように無邪気に答えたかどうか。審査員たちもそこを突くような意地悪な質問はしなかった。私はアメリカという国の懐の深さを渡米前にして体験したのだった。

 

寓居に別れを告げた時、私は自分の中で何かひとつの区切りがついた気がした。そして改めて今の上海をスメドレーが見たら一体どんなことを感じるのだろうかとも思った。

 

私には四半世紀前の上海と現在のそれは隔世の感があった。外観をとってみても、すっかり舗装された道路には塵ひとつ落ちていない。車で大渋滞なのにクラクションも聞こえなければ、オートバイの割り込みもない。復興公園の公衆トイレは汚くないこと拍子抜けするほどであった。

 

最初、人間はやっぱり衣食足りて礼節を知るのかと思ったが、どうやら「美しき誤解」だったようだ。早朝からお揃いの作業着の清掃人が一日中道路を掃き清めている。その上に道の至るところに政府スローガンの「和諧」や「文明」のステッカーを貼ったゴミ箱。つまりゴミを自由に捨てられる雰囲気ではないのだ。どこかに目が光っている。町が静かなのも、クラクションを鳴らすと罰点がつき、貯まれば免許剥奪もありだからだ。「鳴らしたいけど、家庭があるから我慢している」とはタクシーの運転手の言葉だった。

 

上海には都合5日間滞在した。その大半を歴史的建物の探索に費やした。魯迅やその友人、茅盾の家、内山書店、林彪らがしばしば集まっていたという家など等。5日間では到底足りない、ほんの入り口を覗いたにすぎないと感じている。機会があれば探索パート2をしてみたい。

 

  

魯迅が晩年を過ごした家  

 

 

それでも日が経ち目や足が慣れてくると、町の各所に警察官や赤い警告灯を点滅させた公安車両が何時でも出動出来るように、スタンバイしているのが分かったし、至る所にあるという監視カメラの存在も気になりだした。最初は天安門事件30周年が近いためかと思ったが、これまたそうではなかった。暴動や反政府活動を恒常的に封じ込めるため、これが日常的光景なのだ。常在警戒、いや戦場か。そもそも若い世代は天安門事件なんて知りませんよと言われた。「不都合な真実」は知らされず、もっぱら語られるのは「偉大なる中国の夢」ということになる。

 

一日だけだが上海名物、街路樹のプラタナスの花粉が沢山飛んだ日のこと、静かな町のあちこちから大きなクシャミが聞こえて来た。

 

「クシャミはお咎めなし。自由よね」と知人たちと笑い合ったのだった。

 

                      (20199月記 元産経新聞社論説委員長)

前へ 2019年12月 次へ
1
7
8
12
13
14
15
16
17
18
19
21
22
23
25
26
27
28
29
30
31
1
2
3
4
ページのTOPへ