取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
「平成四傑」の未完の旅(菱山 郁朗)2019年8月
もう四半世紀以上前の話である。日本も世界も激しく揺れていた。
平成がスタートした1989年は、天安門事件、東西ドイツ分断の象徴であった「ベルリンの壁」の崩壊、米ソ首脳会談による冷戦終結など、世界は大きな変動期を迎えていた。1990年7月与野党の有力者による訪欧団が、英独仏欧州三カ国歴訪の旅に立った。「選挙制度の調査」を目的にした超党派の調査団である。社会党の田辺誠副委員長を団長に、自民党小沢一郎幹事長、公明党市川雄一書記長、民社党米沢隆書記長の三人が同行し、夫人を伴っていた。四党首脳の欧州訪問は、田辺と太いパイプを持つ、自民党金丸信副総裁の意を受けて小沢が仕掛け、田辺が乗り、「ワンワンライス」と呼ばれるほど小沢と息が合った市川、米沢も応じたと言われていた。
パリに到着した一行は、朝食を摂りながらしばし雑談に花を咲かせた。田辺は、小沢に目を向けると幕末維新をなぞらえて、「君は勝海舟といったところかな」と一言。市川には「君は坂本竜馬だな」、「米沢君は風貌からいうとやっぱり西郷どんだな」と軽口を叩き、「俺はさしずめ桂小五郎といったところだろう」と得意顔で言ってのけ、一同大笑いした。小沢、米沢はまんざらでもない顔をしたが、市川だけは「私はバッサリやられるんですか?」と不満そうな口ぶりであった。田辺はもう一言「まあ、この4人は“平成維新の四傑だ!”」と上機嫌であった。
四党首脳らのこの旅では、2年前のリクルート事件をきっかけに論議が巻き起こった政治改革、とりわけ現行の中選挙区制度を改めて小選挙区制度を導入する問題が、大きく浮上していたためその辺りの話が、どこまで本音ベースで話し合われるかもポイントの一つであった。
三カ国歴訪の旅が終わりを告げる頃、四党首脳は、ロンドンのホテルでそろって同行記者団との内政懇談に応じた。ここで四氏は、「戦後世界の基本的な枠組みが大きく変化している中で、外交・安全保障を含む国際問題について各党が、可能な限りの共同歩調を取って対応していく必要がある、との認識と今回の訪欧の成果を踏まえて、帰国後重要な懸案事項について協議を重ねていくことで一致した」との合意内容を発表した。
田辺は「新たな安保の位置づけなり、枠組みというものを考える時が来た。まず社会党内で大いに議論し、各党間の論議を深め、国際政治に日本がどう対応するか、共通認識をもって対応したい」と述べた。
これらの発言は、世界が激変する転換期の中、“日本も与野党の枠を越えて、連携・連立・連合を含む政界の再編をも視野に入れた、新たな時代を切り開くかも知れない”と受け止められ、ロンドンからのリポートで筆者は、「四党首脳が今後どのように連携して動くかは、政局の節目ごとに台風の目になりそうだ」と伝える。今思えば買いかぶりであったのだが…
訪欧調査団が帰国した直後の8月、イラクのクウェート侵攻で湾岸危機が始まる一方、10月には東証株価が2万円台を割り込み、バブル経済が崩壊。そのまた直後に東西両ドイツが、国家統一されるなど歴史は目まぐるしく動いた。
同じ10月の9日夜、四党首脳は、東京都内の料理屋に集まって歓談した。そして「これからこの4人を中心にざっくばらんに腹を割って話し合っていこう、会合の名称を『壁ない会』にしよう!」ということになった。
しかし、その後の展開は、大きく異なる方向へ押し流されて行く。湾岸は「危機」から「戦争」となり、国際貢献の名の下に海部俊樹政権は、130億ドルという巨額の多国籍軍支援を行うも全く評価されず、やむなくペルシャ湾に自衛隊初の海外派遣となる、掃海艇を出して国際世論に訴えた。
一方政局は、小選挙区制の導入を盛り込んだ政治改革関連法案が、自民党内の根強い反対で挫折し、海部は退陣に追い込まれる。後継の宮沢喜一政権は、「国際貢献は内閣の責務だ」として一旦廃案となったPKO法案を練り直して、再提出した。
欧州の旅で「重要な懸案は協議し、可能な限り共同歩調を取る」ことを約束したはずの四傑は、その後果たしてその通りの行動を取ったのであろうか、それぞれが役回りを発揮して「壁ない会」は、世界のそして日本の大きな転換期にあって、上手く機能したと言えるのであろうか。
1991年~92年のPKO国会で社会党は、田辺のリーダーシップが問われる事態となる。激しい論議が巻き起こったが、社会党は結局自衛隊の海外派遣に反対を貫き、議員総辞職で衆院の解散総選挙を迫るという最強硬戦術を打ち出す。だが、桜内義雄議長は、これを受理せず不発に終わった。PKO法案は社会党の牛歩戦術による徹底抗戦も空しく、自公民三党の賛成多数で可決・成立した。田辺は当初代案を用意するなど話し合いに応じる姿勢を見せたが、最終的には、党内事情に足を取られて、およそ現実路線派のリーダーらしからぬ行動を取る。それはまさしく「運命の皮肉」であった。
田辺はPKO国会を「社会党の墓標のようなものだった」と振り返り、あっけなく頓挫した「壁ない会」について、「小沢が会長、自分は顧問で、これに市川、米沢が参加して、いろいろ懇談しようということで企画したが、結局小沢以外の市川、米沢が、会の真意を見抜けないで、中腰の姿勢だったのであまり実りはなかった」と証言録で悔しそうに述べている。
明治維新を推し進めた桂と、同じ道を歩むことはできなかった田辺だが、党内にシャドーキャビネット(影の内閣)を作り、離党した元同志で先輩の江田三郎の名誉回復を果たす。現実的で柔軟な顔を持ち、駆け引きにも長け、社会党を一歩でも政権に近づけようともがいた政治家であった。
「西郷どん」と言われてにんまりした米沢は、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を愛読し、好きな言葉は、勝海舟の「清濁あわせ飲んでなお清波を漂わす。汝海の男たれ!」だ。そんな男っぽい政治家にあこがれ、民社党最後の委員長となる。新進党の幹事長にも就くが、皮肉にも自ら旗を振って実現した、小選挙区制度による初めての総選挙で自民党に敗れ、涙をのんだ。その歌唱力は抜群で、書記長時代にテレビ局の「各界名士のど自慢大会」に出場、南こうせつの「夢一夜」を絶唱して優勝を果たした。民主党で一度比例復活当選したものの、その後の選挙で敗れ、政界を引退、2016年76歳で死去した。
竜馬と言われて、あまりいい顔をしなかった公明党の市川は、細川護熙非自民連立政権で小沢・市川の「一一ライン」で何度も政権運営の指導権を握った。創価学会の参謀室長から政界入りした市川の腕力・行動力は相当なもので、策士としても知られる。しかし、その風貌からどことなく暗いイメージが付きまとい、「竜馬像には、似つかわしくない」と指摘する声もあった。2003年の政界引退後も党顧問を務め、隠然たる影響力を行使するが、2017年死去した。享年82歳。
勝海舟に擬せられた小沢は、ただ一人の現役政治家である。自民党幹事長から民主党の代表にもなったが、内紛・分裂で民主党を離党、かつての剛腕は影を潜めた。現在の所属政党は国民民主党で、野党勢力の結集・再編に依然として執念を燃やしているようだ。
大久保利通を最も尊敬する小沢は、自著の中で言う。「大久保は策士という印象があるから、決して人気は高くないが、政治家としては明治の元勲の中で一頭地を抜いた存在だ。日本が置かれた状況を冷静に把握した上で、改革を大胆に推し進めた。その結果、さまざまな反発を招き、同士であった西郷とも袂を分かったが、そこでも私情を挟むことなく、反乱を断固鎮圧し、近代日本の礎を築いた。大久保がいなければ、明治維新という大革命も挫折していたかも知れない(『小沢主義』集英社インターナショナル)」。
「剛腕な壊し屋」と称された小沢の四半世紀は、まさしく政界の波乱の歴史そのものだ。経世会分裂を契機に自民党を割って飛び出し、「政治改革の旗手」と持てはやされたかと思うと、同士が次々と去り、政権交代を実現して自民党を下野させたものの検察に狙い撃ちされ、政治資金をめぐる疑惑で失脚する。栄光と挫折の構図は、一時は父親のような存在であった田中角栄とよく似ている。
自称「平成四傑」の欧州訪問からほぼ30年の月日が流れた。自社55年体制の崩壊、非自民連立政権、自社さ連立と「青島ノック現象」、劇場型ワイドショー政治、民主党への政権交代と自民党の復活、安倍一強超長期政権、野党の分裂・再編と忖度政治…永田町の風景は大きく様変わりした。
当然ながら世界も変わる。地球規模の環境汚染や異常気象、緊張の続く中東、EU離脱をめぐって混乱する英国など不安要因を抱える中、中国が大きく台頭し、アメリカに保護主義の大統領が誕生、米中貿易戦争が勃発し、世界経済に影を落とす。核軍縮は進まず、悪化した米ロの間で軍拡競争が再開されるという、およそ30年前とは真逆の状況だ。
桂小五郎とは行かなかった田辺は、同じ社会党の村山富市が総理大臣に指名された、1994年の首班指名選挙で村山にも、小沢が押し立てた海部にも投票せず白票を投じる。1996年社会党の後身社民党を離党、民主党に加わるも同じ年の選挙に出馬せず政界を引退した。その後高齢者福祉施設の経営に携わっていたが、2015年享年93歳にて病没。葬儀には小沢一郎がただ一人参列した。(肩書は当時 文中敬称略)
(元日本テレビ政治部長 2019年8月記)