ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


リレーエッセー「私が会ったあの人」 の記事一覧に戻る

元徳島県知事・圓藤寿穂さん/贈収賄事件で有罪確定/「全面否定」発言軽視に心残り(加治 陽)2019年9月

 白壁の塀の向こう側から顔をのぞかせたその人は、ちょうど目の前にいた私の方を向いて言った。「君たち、そこにいるのをやめてくれないか。ずっと待たれると、圧迫感があるんだよ。僕がうそをつかない人間であることは君たちも分かってくれているだろう」

 2002年3月3日。公共事業を巡り建設業者からの要望を発注者側に伝える「口利きビジネス」による贈収賄事件の捜査が、東京地検特捜部によって進められていた。塀越しに顔を見せたのは、事件のターゲットとなった圓藤寿穂氏、当時の徳島県知事である。

 

■現職知事逮捕で現場狂騒状態

 

 藍の産業で栄えた徳島にあって、圓藤家は有数の藍商の家系だ。その栄華を物語る重厚な造りの圓藤氏宅は、3月に入るころには24時間態勢で記者が張り付くようになった。私たちは人の出入りに目を凝らし、車で圓藤氏が出掛けると、イナゴの大群さながらにタクシーやバイクで追い回した。

 そんな狂騒状態の中、圓藤氏は心身ともに追い詰められ、塀越しに言葉を投げたのだろうが、私の胸に十分には響かなかった。当時の取材陣にとって、特捜検察は「絶対的な正義」であり、その動きをつかむことだけに躍起となっていたためだ。

 直前の2月下旬には読売新聞が容疑の中身をスクープしていた。もはや、私たちに事件を吟味している余裕などなく、関心は「捜査がいつ、どう動くか」の一点にしかなかった。

 「塀越しの言葉」の翌4日、圓藤氏は県議会で疑惑について問われ「悔しくて、悔しくてなりません」と全面否定の答弁をしている。その時も私たちは、本会議が終わるや、特捜部の呼び出しに応じて慌ただしく空港へ向かった圓藤氏を追い掛けるばかりだった。

 その年の11月に圓藤氏の執行猶予刑が確定した。足掛け8年後の2010年1月7日、私は初めて圓藤氏とじっくり向き合った。国土交通省が徳島県で進めた巨大公共事業・吉野川可動堰計画について話を聞くためだ。

 

■変わらぬ可動堰への情熱

 

 知事在任中、真正面から計画推進を唱え、時に反発を招いた圓藤氏。意外なことに、姿勢は何らぶれていなかった。逮捕直後に辞職し、有罪判決の後は「自宅でひきこもりがちな毎日」(逮捕1年後に徳島新聞に寄せた手紙)を過ごしたというから、もう知事在任中の施策や発言には何の〝義理〟もないはずなのに、可動堰の必要性を説く口調は熱を帯びていた。

 「今の技術なら、もっと小型で景観の悪くないものにできる」と力説する姿に間近で接すると、在任中に可動堰は必要だと繰り返し述べた言葉も心からのものだったに違いないと確信した。やはり圓藤氏は「うそをつかない人間」だったのだと実感させられた。

 反省も頭をもたげた。あの頃、「うそをつかない人間」が発した全面否定の言葉に、もっと注意を払うべきだったのではないか。

 この取材と同じ2010年には、村木厚子さんが無罪となった厚生労働省の文書偽造事件で検事による証拠の改ざんが発覚し、「絶対的な正義」だった特捜検察の信用は地に落ちた。あらかじめ定めた筋書きに当てはめるような捜査手法への批判も強まった。

 圓藤氏の言葉にきちんと向き合うべきだったとの思いは、さらに強くなった。

 

(かじ・あきら 徳島新聞社編成部長)

ページのTOPへ