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放送局、グーグルとの連携・協力も 石碑に残された災害の教訓を紹介(岩手日報社 太田代剛)2019年3月

もう二度と、誰にも同じ思いをさせたくない。被災者の切なる思いは幾度となく、時と共に進む「風化」に踏みにじられてきた。人はなぜ教訓を見失い、涙を流し続けるのか。岩手日報社は昨年10月、過去の災害の被災者が石碑に込めた思いを掘り起こし、伝承の意義と課題を探る連載「碑(いしぶみ)の記憶~石碑編」をスタートした。

 

問いに耳を澄ませ、深く考え込み、そして、一言を発した。

 

「津波はおっかない。安心できる場所に住んでいてよかった」

 

宮古市重茂(おもえ)の姉吉(あねよし)集落で長年漁業を営み、今は市内の介護老人保健施設で暮らす川端浅吉さん(106)は、その生涯で幾度となく津波を経験した。

 

■被災史知る長老探しに苦労

 

同集落は、1896(明治29)年と1933(昭和8)年の三陸大津波で壊滅している。記録によると海沿いにあった11戸の集落を襲った明治三陸津波の生存者は、住民78人のうちわずか2人。37年後の昭和三陸津波では14戸の111人が犠牲となった。生存者は4人。

 

集落は親類から後継ぎを受け入れて存続し、500メートルほど離れた山あいの高台を再建の地に定めた。入り口に建立した大津波記念碑に刻んだ「此処より下に家を建てるな」との戒めが先人の思いを伝える。

 

立木をなぎ倒して沢をさかのぼった東日本大震災の津波は碑の直前で止まり、高台の集落は守られた。川端さんの長男・隆さん(77)は「母は津波の恐ろしさを日々、口にしていた。石碑が立っていることも教えてもらった」と、石碑と共に伝わる教訓をかみしめる。

一方、同市に隣接する山田町内の集落も昭和三陸津波後に高台へ移転したが、次第に漁業者らが低地に戻り、東日本大震災で再び大きな被害を受けた。昭和三陸津波後に建立された碑は東日本大震災の津波で倒れ、教訓と共に風化が進む。

 

石碑を建てただけでは風化にあらがえず、碑に込められた思いを体験と共に語り継いでいく必要がある。事実、昭和三陸津波から86年を経た今、被災の歴史を語る川端さんら長老を探し出すのは骨の折れる取材になっているが、その言葉からは長年雨風にさらされ解読すら難しくなった碑文よりもずっと深く、心にしみる教えが感じられた。

 

東日本大震災から間もなく8年。高齢化が進む被災地では震災の「語り部」が減り続けており、メディアが果たすべき役割は増している。私たちは世代を超えて教訓を伝えていくため、新たな挑戦を始めている。

 

IBC岩手放送と連携して「碑の記憶」のホームページ(HP)を立ち上げ、記事のほか仮想現実(VR)動画を発信。地方紙の地域に根を下ろした取材と、放送局ならではの高品質なVR動画を融合させ、まるで現地を訪れているかのように疑似体験できる取り組みだ。さらにグーグルニュースイニシアティブの協力を得て、県内外の石碑を紹介するデジタルマップも公開。スマートフォンやタブレット端末などを手に、実際に現地を歩きながら教訓を学べる仕組み作りも進めている。

 

HPは3月11日に公開予定。将来は「教育に新聞を」(NIE)の一環として子供たちの震災学習や震災遺構を巡るトレイルツアーなどにも役立て、被災者の思いを次世代に伝える役割を果たしていきたい。

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