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朝鮮通信使の足跡をたどる 地域活性化へ大きな期待(読売新聞出身 山岡邦彦)2018年10月

予期した以上に面白く、よく歩き、大いに触発されたツアーであった。

 

江戸時代に朝鮮国王は12回、日本に使節団を送ってきた。「朝鮮通信使に関する記録」が、「17~19世紀における日韓間の平和構築と文化交流の歴史」としてユネスコ「世界の記憶」遺産に登録されてから、ちょうど1年を迎えるタイミングで、広島県鞆の浦と下蒲刈島を訪れた。

 

鞆の浦の福禅寺で客殿対潮楼にあがると、日韓トップ囲碁対局が始まるところだった。日朝の儒者が詩文や朱子学を巡り知的に競い合ったように、碁の対局を「21世紀の朝鮮通信使」としたのは言い得て妙だ。

 

潮流を眼下に見て、遠く四国まで見晴るかせば、ここからの風光を激賞した通信使の気持ちが分かるような気がする。部屋にかかる木扁額は、第8回通信使(1711年)の従事官、李邦彦が残した墨書「日東第一形勝」と、第10回通信使(1748年)の洪景海が正使の父の命で書いた墨書「対潮楼」が基になっている。

 

2日目は下蒲刈島で「朝鮮通信使再現行列」を見た。韓国の金宣杓駐広島総領事が正使に扮して輿に乗り、韓国富川市から来た京畿国際通商高校の吹打隊がナバル(ラッパ)やほら貝、ケンガリ(小型のドラ)、太鼓でにぎやかに景気づける。広島藩主役が乗った櫂伝馬の到着パフォーマンスあり、国書交換式あり、で地元の人びとや観光客が大いに沸いていた。

 

印象に残ったのは、地元の熱心な取り組みである。活性化への期待が大きいのだろう。鞆の浦では「遺産登録したからといって観光客数が目に見えてアップしているわけではない」(福山市文化観光振興部の畑信次・文化財担当課長)、下蒲刈町では「通信使の地であることがあまり知られていない。なかなか予算が…」(蘭島文化振興財団の渡辺理一郎理事長)と課題は残るようだ。

 

最後の通信使は1811年、江戸まで行かず対馬までだった。一方、朝鮮国王から清皇帝への使節派遣は正式なものだけで494回、途中で中止となった1894年まで続いたという(夫馬進『朝鮮燕行使と朝鮮通信使』名古屋大学出版会)。

 

当時の東アジアと今日の世界を想起しながら考える種は尽きない。

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