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会津若松、白河の戦跡をたどる 「日本のために黙って仲良く」(団長・企画委員 朝日新聞 上田俊英)2018年9月

日本の近代化の起点となった明治維新は、国内最後の内戦をともなった。「戊辰戦争」(1868~69年)。敗者となった会津藩など東北、北陸諸藩の地の人びとにとって、今年は「戊辰150年」である。最大の激戦地、福島県の白河市と会津若松市を1泊2日の行程で訪れた。

白河市は奥州三古関のひとつ、白河関がある、みちのくの玄関口だ。市文化財保護審議会委員の植村美洋さんと、まず「稲荷山」という名の丘を訪れた。

 

会津藩などの「東軍」と、明治新政府の「西軍」との激戦が、この稲荷山であった。丘には両軍の戦死者の名を刻んだ碑が立っていた。

 

「両軍を分け隔てなく葬る。地元の人びとがしたことです」と、植村さんは言った。近くに「長州大垣藩戦死六人之墓」などもある。

 

白河市民が今年、心に刻む言葉は「甦る『仁』のこころ」。仁は、あらゆる人への思いやり。その精神は敗者となった後も息づいている。

 

小峰城などを見学した後、会津若松市へ。ここでは会津藩の幼少教育を担った藩校「日新館」の、宗像精館長の話が心に残った。

 

徳川2代将軍秀忠の子、保科正之を初代藩主とする会津藩は、御三家に次ぐ家柄として徳川幕府を支え、戊辰戦争へと至る。新政府から「朝敵」「賊軍」と貶められ、敗戦。そして青森県下北半島の「斗南藩」への移住という苦難を経験した。

 

長州藩、薩摩藩などの「西軍」とは「仲直りはできないんです」と、宗像さんは言った。「歴史の事実は消すべきではない」からだという。では、どうすればいいのか。

 

「黙って仲良くしていればいいんです。会津も薩長も、いっしょに、日本のために」

 

誠実さを感じた。

 

会津若松市民が今年、心に刻むのは「現代に語り継ぐ、会津の『義』」。義は、人が歩むべき道のことだ。

 

2日目は市教育委員会主査の近藤真佐夫さんと、鶴ケ城、飯盛山などの戦跡や、会津の古い町並みなどを見た。藩主松平家墓所では「怪獣ガメラの編隊」に会えた。神式の墓の手前に立つ巨大な碑石がみな、巨大な亀の姿の石の上に載っている。見ものである。私たちを温かく迎えてくれた両市長にも感謝したい。

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