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元ひめゆり学徒の言葉に思う( 神奈川新聞社 松島佳子)2015年6月

「真実を知ることがどれだけ難しいかを私は戦争が終わって知りました。枷(かせ)がかかっていない中で報道できていることこそが平和なのです」。元ひめゆり学徒の仲里正子さん(88)の言葉が胸に引っかかっていた。

 

仲里さんは17歳の時、学徒隊として動員。壕に設置された陸軍病院で次々と運ばれてくる負傷兵を看護する日々に、心はまひしていったという。「砲弾の破片で重傷を負った兵士を押さえつけ、切り落とされた腕や足を抱え、壕の外に捨てに行く。初めは怖くてたまらなかったことが、いつの間にか何とも思わなくなっていた」

 

突然の解散命令後、砲弾の飛び交うジャングルをさまよい、一度は自害を決意した。「軍国教育の影響で『正義の戦争』であることを、誰もが固く信じていた。捕虜になるんだったら死んだ方がいい」。周囲の説得で思いとどまったが、日本の敗戦を知った時、胸にあったのは、生き延びたという安堵ではなく、なぜ負けたのかという悔しさだったという。

 

仲里さんは「心がコントロールされていた」と言い、背景には「画一化された教育、報道があった」と振り返る。そしてそれは「気が付かないところで進んでいた」と。

 

ひめゆり平和祈念資料館の一角。当時、教育現場で使用されていた用語の解説に目がとまった。〈非国民:戦争中、政府の方針に少しでも逆らう人は「非国民」のレッテルを貼られ、厳しい統制と差別をうけた。戦争に対する不満や批判を封じ込めるための格好の言葉であった〉

 

今再び、ネットや週刊誌などでは「非国民」や「売国奴」の言葉が飛び交う。70年前も今も、社会に潜む危険性はさほど変わらないのではないだろうか。仲里さんは言った。「枷がかかって報道をするようなことになったら、それは戦争に向かっていることだと思います」。沖縄視察から1週間。その言葉が重く胸にのしかかっている。

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