ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


リレーエッセー「私が会ったあの人」 の記事一覧に戻る

作家・宮尾登美子さん/自伝小説、身を削る覚悟で(小笠原 雄次)2019年6月

 インタビューはかなりの下準備を要するもの。しっかり備えたにもかかわらず、非常に緊張したのが高知市出身の直木賞作家、宮尾登美子さんの取材だった。

 

■入念な準備、緊張して取材へ

 

 2000年12月、宮尾さんは自伝的長編小説の第4作『仁淀川』を刊行。この新作を紹介し、執筆後の心境を聞く企画だ。社の大先輩から「ちゃんと勉強しとかんと、えらいことになるぞ」、「土産の好物のかまぼこは銘柄を間違えるな」などと指導されるたびにテンションは高まった。

 宮尾さんは1979年に『一絃の琴』で直木賞受賞。その後、『鬼龍院花子の生涯』、『陽暉楼』などが映画化、テレビドラマ化されて国民的作家となっていた。ところが、こちらは文学の素養はなく、たまたま学芸部記者として取材担当となったのだった。

 『仁淀川』は『櫂』『春燈』『朱夏』に続く自伝的小説で、戦後の混乱の中、満州(中国東北部)から引き揚げ、仁淀川のほとりにある夫の生家で暮らし始めた農家の嫁、綾子の葛藤を描く作品だ。主要作と自伝4作を熟読。特に『仁淀川』は何度も読んだ。質問項目も整理。2001年1月、気合いを入れて東京都狛江市の多摩川沿いの宮尾邸の呼び鈴を押した。

 

■土佐弁でリラックス

 

 玄関から居間に案内される途中、上品な黄色の着物が衣桁に掛けられていた。ソファで数分。宮尾さんは着物の本を出すほどの着物通。着物姿で現れたら、何と言おう。冷や汗をかいていたら、宮尾さん登場。紫のセーター姿。ほっとしたところに「まあ、よう高知から来てくれたねえ」と土佐弁で話しかけられたので、リラックスして取材に入った。

 「足かけ20年になる農家の暮らしは、作家の私にとって貴重な体験でした。書き足りないこと、もっとしゃべりたいことがいっぱいある」。こう言われるのだから、質問の順番は無視。思うがまま、話してもらった。

 「自伝は書きたくない。勇気がいる」そうだ。そう言いながら、「あちこちで話を聞いてきて、自分は傷つかずに楽しみに書く。そんなのは文学やない」という思いは『仁淀川』でも一貫していた。

 下町育ちの綾子は早朝からはだしで畑に飛び出す労働についていけず、「何でも人並みが一番」という姑の考えにも反発。姑との心のぶつかり、結核発病、両親の死を経て、自立を模索する綾子の姿を、身を削るようにして描いていく。意地悪をする姑を当時は恨んだが、作家になり年を重ね、考えが変わったという。「夫を早く亡くして苦労して、人一倍働いた姑は偉い人やった」と目を細めた。

 2時間ほどだっただろうか。自伝は作家として自分の裸をさらすもの。その覚悟がひしひしと伝わってきた濃密な時間だった。

 

■主人公への敬意と愛情を大切に

 

 2009年、高知市で開かれた講演会で「実は最初の嫁ぎ先の旧春野村が一番懐かしい」と語った。その講演会で「人の生涯を書いた小説はこの世にごまんとあるが、私は訴訟を起こされたことは一度もない」と強調。理由は主人公への敬意と愛情があるからだという。

 12年、高知市に帰郷。随筆の執筆を始めたが、ファンが待ち望んだ自伝第5作、いよいよ作家を目指す場面は描かれることなく、14年末に死去。88歳。気さくで肝が据わった下町の姉御肌の方だった。

 

(おがさわら・ゆうじ 高知新聞社アーカイブ企画部長)

ページのTOPへ