ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


リレーエッセー「私が会ったあの人」 の記事一覧に戻る

元都立三鷹高校校長・土肥信雄さん/陽気で前向きな反骨の人(戸次 聡史)2019年5月

 10年余り前、都立三鷹高校の校長だった土肥信雄さん(写真)は「職員会議での挙手・採決禁止」という都教育庁の通知に対し「もの言えぬ職場になる」と公然と反対の声を上げた。校則も制服もないかつての都立高校の自由な空気を吸った筆者としては、石原都政の下での学校の管理強化はかねてから気がかりだったし、校長の「造反」には少なからず驚いた。取材で会った土肥さんに尋ねた。「報復が怖くないのですか」。土肥さんはカラカラと笑って大きな声で答えた。「ありがとうございます。ご心配なく」

 

 ■ずっと抱えていた悔い

 

 土肥さんは東大を卒業後、大手商社に就職。ほどなく社内で談合問題が発覚し、嫌気がさして2年で辞めた。そして「自由にものが言える職場がいい」と高校の教員に。ただ不正に対してはっきり声を上げなかった若い頃の後悔をずっと抱えていたという。都教委に対し一人声を上げたのはこのためだ。

 

 ■「最高の校長!」

 

 土肥さんは高校で約1000人もの生徒の名前を覚え、毎朝校門に立って気さくに声をかけ、放課後は部活動に汗を流した。定年退職の時に土肥さんに贈られた卒業生全員の寄せ書きには「名前を覚えてもらってうれしかった」「印象深い校長」「最高でした!」などとある。

 しかし退職後の都の非常勤教員採用選考で土肥さんの業績評価は3段階でオール「C」、不採用となった。土肥さんは「都教委に異を唱えたことに対する不当な報復」として都を提訴。裁判では百数十人の教え子が「陳述書」を提出し、最低の評価を受けるような先生ではないことを訴えた。

 大組織に裁判で立ち向かうこととなった土肥さんだが、悲壮感はなかった。不採用で無職となった当時、会う人ごとに「職業は裁判です」と冗談を交えて自己紹介し、大きな声でカラカラと笑っていた。間違ったことはしていない、何よりたくさんの教え子が応援してくれる、勝訴していくらかの賠償金も得られるはず、と信じていたのだ。

 担当の裁判長は原告の主張にじっくりと耳を傾けている印象を弁護団は持っていた。勝訴判決への期待が膨らんでいた。だが結審を目前にして「なぜか突然(弁護団)」、裁判長が交代。新しい裁判長は1回の審理の後、原告敗訴の判決を言い渡した。二審の東京高裁は「教師として優れた能力を持っていた」と言及しつつ「教員採用の幅広い裁量権」を認めて原告敗訴。最高裁も上告を棄却し、5年半余りに及んだ裁判は終わった。

 裁判終結の報告会で土肥さんは、いつもの大きな声で「無念」と繰り返した。だが、私には土肥さんが「世の常」を嘆いているようには思えなかった。気持ちはすでに前を向いているように思えた。

 

 ■「ご心配なく」

 

 土肥さんは支援者たちの計らいで大学の非常勤講師の職を得ていた。先日、大学に久しぶりに土肥さんを訪ねた。『生活指導論』の40人ほどの学生に「全員の名前を覚える」と宣言しているそうで、講義中、学生の名前を呼んで語りかけていた。何人かの学生に聞くと「全員の名前を覚えるなんて嘘だろ、と思ったけど、こんな先生もいるんですね」。講義をする土肥さんの声は古希を迎えてなお大きく、「聴講カード、ちょこっと書いて」などと盛んに冗談を飛ばす。若い人と触れ合う喜びは高校も大学も変わらないと言う。初めて会った時の言葉が思い出された。

 「ありがとうございます。ご心配なく」

 

(べっき・さとし NHKグローバルメディアサービスデジタルニュース部担当部長)

ページのTOPへ