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元農水事務次官・京谷昭夫さん/コメ開放前夜の「折伏」官僚(河原 仁志)2019年2月

 ネタなど取れっこないのに毎晩通ってしまう取材先があった。1993年、新多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)で日本のコメ市場が世界に開放されるかどうかの緊迫の日々。歴代政権は「一粒たりとも入れさせない」と公言していたが、農業補助金分野での米欧の対立が解消すれば、日本のコメだけが全体合意の〝障害〟となる厳しい情勢だった。

 

 ■青森の方言で禅問答

 

 農水事務次官・京谷昭夫さんの自宅は、都心から江戸川を渡って小1時間はかかる難所にあった。通い始めた動機は至って不純。遠くて誰も来ないから。どこで何をしているのか、ご帰還は大抵日付が変わる頃だった。狭い応接間で、ガウンを羽織った奥さまがいつも果物を出してくれた。「こんなに遅くに」なんて顔はみじんも見せない。ただ、テーブルに投げ出した旦那の足をピシッとたたいて、すっと出て行く。当方はこれだけでもう恐縮、汗顔の至りである。おずおずと問いを発すると、禅問答が始まる。「歩きながら考えるだわ」「おらほの汗と先方の腕力を見せていかにゃあ」「段取りが大事だ」

 一つ一つの答えは青森の方言と相まって曖昧模糊。ただ、それをつなぎ合わせると点描画のように全体像が浮かんでくることがあった。京谷さんの関心は、開放を迫る米国との交渉よりも国内世論に向いていた。そしてある時、物言いに何度も出てくるキーワードがあることに気が付いた。「折伏」という言葉だ。何度も説得して相手に理解してもらうという仏教用語。「まだ折伏が足りない」「折伏して折り合いをつけてもらわんと」。その言葉は、私の過去の苦い経験と結び付き、京谷農政の本質を映し出すものだった。

 

 ■〝国賊〟に「いいんだ、あれで」

 

 91年6月、デンマークでの5カ国農相会議に出席した近藤元次農相と同行記者団との現地懇談でのことだ。農相は突然「(コメ開放の)可能性があることは十分認識している」「大事なのはタイミング」などと腹の底を語りだした。皆、面食らった。しかも広報からオフレコ扱いの告知がない。他社の記者に「これって縛りないよな」と確認すると曖昧にうなずく。広報が忘れただけなのか。意識的にそうしたのか。いずれにせよ、オフレコでないのだから通信社は打たなければならない。「農水省首脳、コメ開放時期みて判断」の速報が世界に流れた。

 仰天した東京の農水省は夜が明けて国際局長が会見し共同電を全否定。その後しばらく私は国賊扱いされた。帰国して間もなく、役所の廊下ですれ違った京谷さんに「何がいけなかったのでしょうか」と問うと、笑いながらひと言「いいんだ、あれで」。

 京谷さんはこうしたことも来るべき日に向けた「段取り」の一つだと思っていたのだろう。「一粒たりとも」と言い募る政権幹部や自民党農水族。それを真に受ける地方の農家や世の人々。絵空事をみせられる市井の人たちに少しずつ、時間をかけ、厳しい現実を示していく。折伏していく。世論の理解あってこその農政。それがこの人の吏道だったのではなかったか。

 京谷さんは退官後、日本中央競馬会(JRA)理事長に就任。間もなくして肺を患い、60歳の若さで逝った。深夜の帰宅が、農業関係者への折伏活動のためだったと知ったのは、ずっと後のことだ。昨今の霞が関の惨状を見るたびに、政治と国民の触媒たらんとした亡き官僚の姿を思い出す。

 (かわはら・ひとし 共同通信社常務理事)

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