取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
「さよならはまだ」アンゲラ・メルケル首相への手紙(千野 境子)2018年12月
アンゲラ・メルケル様へ
年末、ドイツの与党キリスト教民主同盟(CDU)の新しい党首にアンネグレート・クランプカレンバウアー幹事長が選ばれました。貴女の側近とか。同党初の女性党首として18年余に及んだ座を去る心境は如何なものでしょうか。
2カ月前の10月、貴女が地方選連敗などの責任を取って今季限りの引退を表明した時、私は自国の首相引退でも感じたことのなかった一抹の寂しさを覚えました。
社会主義体制の東独に育ちながら米ソ冷戦の終焉で人生を劇的に変え、ドイツ初の女性宰相でありG7の顔でもあり続けた貴女が、リベラルな戦後国際秩序が揺らぎ、米中新冷戦の声さえ聞かれる今、国際政治の舞台を去って行くことに運命というか天の采配を感じるからです。
実は私には貴女との共通点があります。まず誕生日。そう、だから星座(かに座)も同じ。トシは違っても同じ星の下に生まれたのです! また犬が苦手とも知り親近感は増しました。かつてロシアのプーチン大統領の愛犬が首脳会談の席に紛れ込んだことがありましたが、心中さぞ穏やかではなかったことでしょう。まあしかしこれらは余話ですが。
「メルケル首相のドイツ」と私の多少の縁は、1993年に宮沢首相とコール首相との合意により設立され、今日も続く「日独フォーラム」への参加です。日独の政界や経済界、学界、ジャーナリストらが意見を交わし関係強化や相互理解を図るもので、特に貴女との関りの深かったのが2008年と10年のベルリンでの会合でした。
08年11月25日、貴女は首相府を訪れた第17回日独フォーラムのメンバーと円卓で向き合い会見しました。とても気さくで雰囲気も上々でした。当時のメモには少々断片的ながら貴女の国際協調を重視したこんな文言が残っていて、今では示唆的でもあります。
「私たちは共通の世界に生きている。孤立しないで生きて行かねばならないことを痛感させられる。米欧、アジア、全部。いろいろな地域協力に加えて二国間協力の強化が大切だし、それらを束ねて行くことが大事。……市場原理や価値の共有、民主主義への対応、そして台頭する国にどう対応するか。民主主義に代わるものはないと思うが、ことを迅速に行う時には(民主主義は)時間がかかる。時間がない時は中国に頼みますか」。最後は皮肉ですね。
また前年に訪れた日本の印象記はもちろん、金融の透明性や格付け問題も熱心に語りました。2カ月前の9月に米投資銀行リーマン・ブラザースが経営破綻、日本も株価大暴落、欧州金融機関が会計基準の変更を行うなど、いわゆるリーマンショックが席巻しつつあった時期だからです。貴女との記念写真は貴女のサイン入り。日本語で言うなら女の子のまる文字みたいなのがご愛敬です。
10年11月の19回フォーラムは貴女のある発言が関心を集めました。その発言とは貴女がCDUの青年部会で10月に語った「ドイツに多文化社会を築こうとの試みは完全に失敗した」というものです。ドイツは当時人口8200万人の20%近い1600万人が移民か外国人出身者、イスラム系は約400万人という移民大国で、貴女は「移民はドイツ語を学び、ドイツ社会に融合しなければならない。国語を話さない人間は歓迎されない」とも述べ、「イスラムはもはやドイツの一部」とする大統領の寛容な発言とニュアンスを異にしました。
この思い切った発言は欧州全域で波紋を広げ、フォーラムでも早速取り上げられたわけです。ドイツのあるジャーナリストは発言の真意を「移民結構。しかし融合への努力をしてもらいたい。メルケル首相は国民の中にあるふつふつとした怒りをなだめようとしたのです」と解説しました。そうか、さすが「民意」を読むのが上手いと感心したものです。
《政治への疲弊感がデモや集会など抗議の文化を生んでいる。しかも60、70年代の左派のそれと異なり、保守的な人々が現状維持を求めての抵抗運動でもある。高齢化で変化が怖いという気分もある。(ジャーナリストの)そんな分析に、米中間選挙での保守による茶会運動の躍進が重なった。政治の疲弊と怒り、抗議はもはや先進国現象なのかもしれない。》とは拙稿「多文化社会と日独の将来」(産経新聞平成22年11月22日付)の引用です。
今回の事態は、貴女の寛容な難民・移民政策が有権者の共感を得られず、選挙に負けたことに端を発しているわけですが、上の発言を読めば貴女が決して単なる博愛主義者や人道主義者ではなく、むしろ難民・移民問題の難しさを知るが故の発言であることが分かります。
残念ながら、その後の状況は難民・移民を出す側、受け入れる側双方の問題が相まって、改善どころか一層悪化の方向へ向かっているように見えます。今や難民・移民排斥の波はヨーロッパに留まらず世界的となり、ポピュリズムがそれを後押ししています。トランプ大統領はアメリカ・ファーストも壁も諦めないようですし。
しかしどんなに排斥されようと、その波が簡単に引くものではないことは、例えば中米で起きている移民大行進を見れば明らかでしょう。それは善悪ではない、人々の根源的衝動、生きている証です。世界はどう対応すればよいのでしょうか。
貴女の首相としての任期は2021年秋まで残っています。貴女はレームダックになってしまうのか、ドイツ政局のことは分かりません。しかし戦後国際秩序は大きな曲がり角にあります。是非もうひと働きして有終の美を飾ってほしいものです。さよならを言うのはそれからです。
(元産経新聞社記者、2018年12月記)