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鹿児島実高サッカー部元監督・松澤隆司さん/誰からも愛された勝負師(鈴木 達三)2018年12月

 寒さに震え、前半終了を告げる笛と同時に駆け込んだトイレ。ほっと一息ついて顔を上げると隣にいた松澤隆司さんと目が合った。「おう、わざわざ取材に来てくれたのか」。駆け出しのスポーツ担当記者だった私に気がつくと、険しかった勝負師の表情が緩んだ。

 

 1986(昭和61)年1月6日、雪の残る横浜市三ツ沢球技場。全国高校サッカー選手権大会準々決勝で、鹿児島実は国立競技場への切符をかけて四日市中央工(三重)と戦っていた。ベスト8進出は鹿児島県勢初の快挙だった。

 

 ふるさと代表の活躍を現地から報じるため、急きょ試合前日早朝に鹿児島を発った。しかし、大雪で交通機関は乱れ、福岡行きの飛行機は熊本に着陸。バスで博多へ行き、乗り込んだ新幹線は大混雑し、立ちっぱなしのまま深夜の横浜に着いた。翌日、重い身体のまま球技場にいた。だが、松澤さんの笑顔に触れた途端、元気が湧いてきたことを鮮明に覚えている。

 

 ■疾風怒濤の鹿実スタイル誕生

 

 猛練習で培われた圧倒的な運動量と球際の強さで、疾風怒濤と称された鹿実サッカー。そのスタイルは「専門的に指導法を学んだことのない」松澤さんの下だからこそ築かれたのかもしれない。

 

 弊紙連載の回顧録によると、23歳でコーチに就いた1964年当時を「練習メニューの引き出しは少ない。子どもたちと一緒にボールを蹴って走り回っていただけ」と振り返っている。だが、その後、勝つ喜びと負ける悔しさを繰り返し味わうなかで、戦術とチームを着実に進化させていった。

 

 全国高校選手権に初出場したのは78年度。母校の活躍に歓喜した関東同窓会からマイクロバスが贈られると、自らハンドルを握り、全国の強豪校を訪ね、練習試合を重ねた。夜は持参した焼酎のお湯割りを勧めながら、名将らに教えを請うた。戦った相手校、指導者すべてが師匠だった、という。

 

 型破りな強化策は、聞き上手、話し上手の松澤さんだから可能だったのだと思う。やや早口で、柔らかい語り口。話し出すと止まらない。だが、人の意見は熱心に聞き入る。その人柄に誰もが引き込まれ、時間が経つのを忘れてしまうのだ。

 

 全国遠征を始めた翌年の全国高校総体で4強進出。その後2度の高校選手権優勝など輝かしい結果を残し続けた。同時に、前園真聖、城彰二、遠藤保仁、松井大輔らワールドカップ、五輪などで活躍する選手を多数育て上げた。

 

 ■教育者としても一流

 

 一流の指導者であるとともに優れた教育者だった。監督として、電気科教諭として、生徒に厳しく接したが、尊敬され、慕われた。教え子で、弊社事業部勤務の蓑田智史さん(40)は「勘の鋭い勝負師であり、厳格な教育者だった。心の中を読まれ、すべて見抜かれている感じだった。とにかく怖かったが、あこがれの先生の近くで学ばせてもらった3年間は特別なもの」。

 

 ふるさとを愛した人でもあった。好成績を収めた後のインタビューでは必ず選手の小、中学校の指導者に感謝し、「恩返しができた」と喜んだ。「鹿児島の子どもたちに夢を与えられたことがうれしい」と繰り返し話した。県協会副会長などとして鹿児島にJリーグのチームをつくるためにも尽力した。

 

 2017年8月逝去。76歳。天国でもサッカー談義をしながら教え子や、鹿児島ユナイテッドFCの活躍を見守っていることだろう。

 

(すずき・たつぞう 南日本新聞社取締役)

 

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