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ソ連末期、老将軍との深い交流/アフロメーエフ叔父さんの笑顔(吉田 成之)2018年11月

 計7年間、2度のモスクワ勤務は歴史的な大ニュースに恵まれ、記者冥利に尽きるものだった。特に最初のモスクワでは、1991年12月のソ連崩壊に至るプロセスをつぶさに目撃できた。ゴルバチョフ元ソ連大統領が始めたペレストロイカ(改革)のおかげで、それ以前のモスクワ特派員では考えられないような「直接取材」が許された時代であった。以下は、今でも忘れられない、ある老将軍との交流記である。

 

 当時ソ連では、「ゴルバチョフの学校」とも呼ばれた「上からの民主化」が進んでいた。ソ連はどこへ行くのか―。これを取材するうえで、議会を傍聴し、議論の流れを見守ることが欠かせないものになっていた。議場の脇では、休憩時間ともなると大物たちの周りに内外記者たちが群がって、質問攻めにする光景が日常的になった。

 

 そんな中で、私はカーキ色の軍服に身を包んだ、痩身の、眼光厳しい軍人と差しで話すようになった。セルゲイ・アフロメーエフ・ソ連大統領軍事問題担当顧問である。1990年初めのことだ。彼は前ソ連軍参謀総長(元帥)だった。

 

 ◆父の面影だぶり、親しみ覚えた人柄

 

 軍保守派を代表する大物だったが、小柄な彼は目立つ存在ではなかった。偶然彼を見つけた私は恐る恐る彼に近づき、思い切って話し掛けてみた。 

 

 「質問をしてもいいですか」

 

 言下に断られると覚悟していたが、意外にも「何が聞きたいのか」と立ち止まってくれた。この人なら話をしてくれそうだ、というのが私の直感だった。

 

 「米国との緊張緩和や軍縮交渉が進んでいるが、どう思うか。軍部は不満なのか」と尋ねると、「米国との話し合いが進むことはいいことだ。米国が減らすというなら、我々も減らすよ」とサバサバした表情で語った。

 

 この時はこれで話は終わったが、私は何故か彼にひかれた。自分でも不思議だった。「父に似ているからかな」。痩せぎすで、中学校の怖い先生といった雰囲気の父の面影とだぶるものがあった。

 

 そんな気持ちが通じたのか。それ以来、議会に行く度に立ち話をするようになった。30代半ばの私は、単なる取材先というより、ロシアで言うところの「ジャージャ・アフロメーエフ」(アフロメーエフ叔父さん)という感覚で接するようになった。議場脇の小部屋でインタビューを受けてくれるようにもなった。

 

 1991年の2月には、この年の4月に予定されていたゴルバチョフ大統領の初来日を前に、北方領土交渉について意見を求めてみた。

 

 すると、驚くようなことを口にした。1956年の「日ソ共同宣言で歯舞、色丹2島の返還を明記している以上、ソ連は2島返還に関する交渉に応じるべきである」と言い切ったのだ。個人的見解と前置きしてのものだが、ゴルバチョフ政権の高官が、2島返還交渉を拒否できないとの考えを表明したのは初めてであった。おまけに軍保守派の実力者である。大きなニュースだった。

 

 会見が終わると、彼はこう言った。「君がどんな記事にするのか知りたいから、記事を書いたら、ロシア語にして読ませてくれ」。少し迷ったが、まあ、発言の内容からみて、仕方ないかなと思い、記事を助手にロシア語にしてもらい、再度クレムリンに持って行った。

 

 すると、彼は原稿に目を通しながら、ボールペンで修正を加えていった。肝心な部分がばっさり削られるのでは、と心配したが、細かな手直しだけで済んでホッとした。あの時の彼の表情が今も忘れられない。「なんで、私が日本人記者の原稿をチェックしないといけないのかね」。こう言いながら、目尻を下げて笑ったのだ。後にも先にも、彼の笑顔を見たのはこの時だけだった。私はますます「ジャージャ・アフロメーエフ」に親しみを覚えるようになっていた。

 

 結局、来日の際にゴルバチョフ氏は日ソ共同宣言の確認には踏み込まず、北方領土問題の存在を認めるにとどまった。来日までの間、領土交渉でのソ連側の方針をめぐりクレムリン内では色々な検討がなされた。アフロメーエフ氏の発言は保守派の中でも、意外と柔軟な考え方があったことを示していたと思う。

 

 これより先、90年5月18日にはこんなことがあった。この時、クレムリンでは焦点の米ソ戦略兵器削減交渉(START)をめぐるヤマ場の協議がゴルバチョフ大統領、シェワルナゼ外相と、訪ソしたベーカー米国務長官との間で続けられていた。協議はなんと3日目に突入していた。ワシントンからの同行記者団も含め、報道陣は連日、外務省プレスセンターに缶詰め状態になった。

 

 この日昼、支局にクレムリンから私宛てに電話があった。「今日午後4時に来てくれとアフロメーエフ顧問が言っている」との内容だった。夜勤明けで非常に眠かったが、眠気は吹っ飛んだ。

 

 赤の広場に面したスパスキー門からクレムリンに入ると、3階のだだっ広い会議室に通された。待っていると、彼がすっきりした表情で入ってきた。「何でも聞いていいぞ」

 

 「交渉のことだな」とピンと来たので、どんな状況か、尋ねると「きょうまで解決されなかった主要な問題は解決された。年末に条約の調印は可能になった」と嬉しそうに話し始めた。空中発射巡航ミサイル(ALCM)や海洋発射巡航ミサイル(SLCM)などの争点について大枠でクリアできたことを話してくれた。

 

 メモを取る手が震えた。20分ほどでインタビューは終わり、私は出口に近い1階の外線電話で瀬川清茂支局長に「START交渉で米ソが基本合意」とたたき込んだ。日本時間ではもう午後11時を回っていた。日本の各紙はもちろん、NYTやヘラルド・トリビューンにもKyodo saidとトップで引用された。

 

 米ソ両国は6月初め、ワシントンで首脳会談を行い、ホワイトハウスでブッシュ、ゴルバチョフ両大統領がSTARTの基本合意と、START2開始の目標設定などについて合意文書に調印した。

 

 私もモスクワから同行取材した。調印式が行われるイーストルームで座っていると、ソ連側代表団が入場してきた。黒っぽいスーツ姿のアフロメーエフ氏もいた。彼のネクタイ姿は初めて見た。スーツは似合わず、やや緊張していた。座ろうとかがんだ瞬間、私と目が合った(と私には見えた)。私は無性に嬉しかった。「スーツを着るなんて。ようやく彼も冷戦終結後の新しい時代を受け入れてくれたのか」と。

 

 ◆クーデター事件で悲劇的な結末

 

 しかし、喜んだのも束の間だった。その後彼は米国主導の軍縮に反対する言動を強めた。翌年になると、保守派によるクーデターの噂が飛び交った。

 

 8月19日、噂は現実になった。保守派によるクーデター未遂事件が起きた。21日、あっけなく反乱は失敗した。4日後の25日昼、日曜出番で支局にいると、インタファクスがアフロメーエフ氏自殺の速報を流してきた。執務室には遺書が残されており「私が人生をささげたすべてのものが崩壊しつつある」などと書かれていた。

 

 ショックだった。不器用だが、真摯な彼の生きざまに触れた私としては、新時代に適応してくれと願っていた。同時に難しいことであることも予想していた。動揺したまま、記事を書いた。涙が出た。

 

 その後、悲しいことが続いた。モスクワ郊外に埋葬された彼の墓が荒らされ、遺体から軍服がはぎ取られたのだ。彼のクーデターへの関与の有無については様々な説がある。

 

 今でも悔やんでいることがある。クーデター後の嵐のような日々の忙しさにかまけて、彼が事件前に何を考えていたのか、掘り下げた取材をできなかったことだ。

 

 冷戦終結から30年近くが経過した。世界はエゴをむき出しに国益を賭けて争う時代に先祖返りしつつある。アフロメーエフ氏は泉下でどう見ているのだろうか。

 

よしだ・しげゆき

1953年生まれ 77年共同通信社入社 名古屋支社を経て 88年から92年までモスクワ特派員 94年から97年までワシントン特派員 98年から2002年までモスクワ支局長 外信部長 整理部長 ニュースセンター長 国際局長 常務理事 18年6月まで共同通信システム専務

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