ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


リレーエッセー「私が会ったあの人」 の記事一覧に戻る

元蔵相・三塚博さん 「使い捨て」にされたのか(佐藤 純)2018年9月

 自民党の有力派閥を長く率いた実力者だったが、没後14年、あまり話題にならないのはなぜだろう。三塚博氏(享年76)。

 

 東京支社時代、宮城選出の三塚氏に密着した。清和会会長は常に多くの番記者に囲まれていたが、「地元枠」扱いの私に「何かあったか」と毎回声をかけてくれた。

 

 豪胆でなる三塚氏が少し困った表情を見せたことがある。

 

 蔵相だった1997年11月、地元・宮城の銀行の経営破たんが取り沙汰された。記者から何度も確認された蔵相は「大丈夫です」と繰り返したが、顔は不安げ。結局、その夜大蔵省がリークして最終版に「破たん」が載り、万事休した。2カ月後、大蔵官僚汚職で蔵相を引責辞任する。

 

 党内で世代交代の波が高まる98年12月、三塚派内でも森喜朗氏への会長交代を迫る動きが活発化。会長の意向とかかわりなく「来週辞任」などという話が出始めて緊迫していたある夜、「森君と連絡が取れないんだよ」とため息をついた。その時、周囲に議員は1人もおらず、翌日、禅譲を表明した。

 

 前の例は大蔵官僚から、後段は派閥議員から、それぞれ「使い捨て」にされたと私は思っている。

 

 ■45歳で国会デビュー

 

 農家出身の三塚氏は一人で道を切り開き、衆院議員秘書、県議2期を経て国会に。その時45歳。橋本龍太郎氏、小渕恵三氏は26歳で初当選。彼らは10歳下だが3期先輩になる。15歳下の小沢一郎氏、10歳下の森氏は1期先輩だ。

 

 「二世、三世のライバルと違って三塚には時間がなかった。だから政策を猛勉強し、来たもの出会ったものは何でも受け入れ、引き受けた。人も仕事もポストも」と古参秘書は明かす。

 

 農政、教育、成田開港に取り組み、仙台市の地下鉄認可、空港拡張など地元の課題実現に政治力を発揮した。89年だけで通産相、外相、党政調会長を歴任。派閥会長も、森氏は1回見送る余裕があったが、三塚氏は「分裂含みの状況で逃げるのは卑怯だと言われ困った」と言いながら引き受けた。

 

 特筆すべきは、国鉄の分割・民営化だ。国鉄当局は冷ややかで、運輸族議員も尻込みする難題に、敢然と取り組んだ。想像を絶するような困難、家族まで及んだ脅迫や嫌がらせもあったが、「命までは取られないだろう」と逆に奮起し、持ち前の馬力で、改革派職員、国民世論を味方につけて民営化を成し遂げた力量は圧巻だった。

 

 晩年、小泉政権になってからは、仙台の自宅で薄い水割りを飲みながらよく話を聞いた。かつて大勢いた訪問客もなく、三塚氏は議員や官僚からだけでなく、党や地元自治体、経済界からも頼られ、使われ、忘れ去られたような気がした。その薄情さを嘆く私に、「国会議員は役立ってなんぼ。国民に使い尽くされるなら望むところだよ」と語ったが、声は小さかった。

 

 二世議員をライバル視した三塚氏も結局、世襲の道を探る。だが果たせず、一代で国会を去った。

 

 「三塚博秘書」を足掛かりに国会議員に駆け上がった現職は衆参で3人いる。仙台市議会議長は直近6代のうち4人が秘書経験者だ。彼らは「無私の努力と忍耐を学んだ。苦労人ゆえの寛容さが身に染みた」と口をそろえる。

 

 今、疾走する新幹線、JR各駅のにぎわいを見る時、私は三塚氏の笑顔を思い出す。

 

(さとう・じゅん 河北新報社常務取締役)

ページのTOPへ