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北炭夕張炭鉱の事故と閉山 日本石炭産業に致命的打撃(松本 克夫)2018年7月

 石垣が崩れるように、日本の石炭産業が崩壊していくきっかけになったのは、北炭夕張炭鉱(本社北海道夕張市)夕張新鉱のガス突出事故である。93人が犠牲になった事故は1981年10月16日に起きた。衝撃は大きく、この年の10大ニュースのトップにランクされるほどだった。

 

 当時、エネルギー産業を担当していた私は東京にいたから、凄惨を極めた事故の現場を体験してはいない。国内炭生産量第2位の北海道炭砿汽船(以下北炭)や日本の石炭産業がどうなっていくのかを見極めるのが仕事だった。

 

 北炭はいわくつきの会社だった。長く社長、会長を務めた萩原吉太郎氏は政界に知己が多く、政商といわれた。その政治力もあってか、政府や金融機関の資金支援を得て、1000億円もの累積債務を抱えながら、何とか持ちこたえている状態だった。北炭は経営再建のため、事故の3年前に生産部門を炭鉱別に3子会社に分け、独立採算制にしていた。北炭夕張炭鉱はその1社で、林千明北炭社長が自ら社長を兼務していた。良質な原料炭を産出する北炭のエースともいえる炭鉱だったが、炭層が深部にあり、断層やガスの含有量が多い技術的に難しい炭鉱だった。生産量は目標を下回り続け、北炭の経営悪化の要因になっていた。前年の8月に坑内火災を引き起こし、1カ月半の操業休止に追い込まれたばかりだから、生産目標達成を強いれば、事故の危険性が増すのは必至だった。

 

 ◆業界全体に存亡の危機迫る

 

 その危うさは、日本の石炭産業全体についてもいえた。長らく年産2000万トン体制維持が政府、業界の目標だったが、当時は1800万トンの生産がやっとという状態だった。この年に石炭鉱業審議会は第7次石炭政策を答申したが、2000万トン維持が至上命令とはしていなかった。石炭業界からは、「生かすのか殺すのか、はっきりしてくれ」という声が上がっていた。「石炭産業を存続させるというなら、西ドイツのように保護策を徹底してくれ。消滅させるというなら、地域経済が壊滅しないように安楽死させる手を打ってくれ」というわけである。

 

 国内炭の主な需要家は、電力、鉄鋼という巨大企業である。オイルショック以降、一般炭と競合する重油が高騰し、国内炭にとって有利な状況が生まれていた。とはいえ、輸入炭と比べれば割高だから、需要家も簡単には値上げを受け入れてはくれない。仮に平均レベルの炭鉱が収支トントンになる炭価で合意したとしても、条件の悪い炭鉱は赤字を余儀なくされる。赤字解消を目指して増産やコスト削減で無理をすれば、事故につながりかねない。

 

 国内炭保護に徹するとしても、ある程度の生産量を見込めることが前提になる。年産1800万トンは、国内の石炭需要のほぼ5分の1だが、その維持がエネルギー安全保障上どの程度の意味を持つかは意見が分かれた。もし、年産300万トンの北炭が脱落して、実質1500万トン体制になったら、ますます安全保障上の意味は薄れる。

 

 先々のことはともかく、まずは北炭夕張炭鉱の行方を探ることが取材の中心になった。北炭夕張炭鉱の労使の取材は札幌支社に任せて、私は鍵を握ると見られる萩原吉太郎前会長、主力銀行である三井銀行の小山五郎会長、福川伸次資源エネルギー庁石炭部長(後の通産次官)、有吉新吾日本石炭協会会長(三井鉱山会長)、野呂潔日本炭鉱労働組合(炭労)委員長らの取材に明け暮れた。といっても、萩原氏は門を閉ざして会ってくれなかったし、小山氏もほとんど話してくれなかったから、なかなか着地点がつかめなかった。自民党の倉成正夕張新炭鉱災害対策本部長や社会党の岡田利治北炭夕張新鉱災害対策特別委員会副委員長ら政治家にも取材の網を広げた。

 

 ◆幻となった1社統合案

 

 石炭産業が生き残れるとしたら、最後の手段かと思われる案が一つあった。石炭各社を1社に統合する案である。かつて萩原吉太郎氏が提唱したものの、業界の足並みがそろわず、立ち消えになっていた。このころ、その実現を熱心に説いたのは、住友石炭鉱業の尾高昇会長である。1社に統合すれば、条件の厳しい炭鉱を支援しやすくなる。資材の共同購入などにより、全体のコストも引き下げられる。統合石炭会社に需要家も参加すれば、需要家との関係も緊密になる。弱い炭鉱から脱落していく事態を防ぐにはこれくらいしか道はないかという気がしたものだ。

 

 しかし、各社の首脳に当たってみると、正面からの反対はないものの、気乗り薄の姿勢が感じられた。需要家は重荷を負わされることを警戒し、通産省は企業努力を阻害することを恐れた。「石炭業界1社に統合へ」という原稿はいつでも掲載できるように用意してあったが、ついに使うことはなかった。尾高会長が統合の機運を盛り上げるような記事を望んでいるのは承知していた。しかし、業界の合意ができていない以上載せるわけにはいかない。

 

 1社への統合案が実現しなければ、北炭は単独で再建に努めるしかない。しかし、坑道が水没している北炭夕張炭鉱の早期操業再開は難しいし、支援要請を受けた通産省と金融機関がにらみ合っているうちに、日に日に資金繰りは悪化していく。同年12月7日になって、心労が重なった林北炭社長が自殺を図った。未遂に終わったものの、再建の陣頭に立てる状態ではなくなった。林社長は自殺を図る前、札幌支社のS記者に電話してきた。林氏が最後に声を聞きたかった相手の1人だったのだろう。S記者の熱心な取材ぶりがわかるというものだ。

 

 ◆会社更生法の単独特ダネ逃す

 

 それから数日して、それまで何も示唆してくれなかった小山三井銀行会長が「これしかないと思っている」と一言だけいってくれた。「これ」の中身がわからなければ、記事の書きようがないが、とにかく小山氏が萩原氏に引導を渡したことは確かだった。間もなく、「これ」が北炭夕張炭鉱の会社更生法申請だとわかった。申請日の2日前だった。申請当日の12月15日付朝刊に記事を掲載することに決めた。無用の混乱を招かないためには、1日待った方がいいと判断したのである。しかし結果的には、1社単独の特ダネを逃したことになった。

 

 北炭夕張炭鉱の負債総額は721億円。その半分の360億円が政府機関からの借り入れという会社更生法申請としては異例のものだった。北炭夕張炭鉱はその後も操業再開のめどが立たず、1年後には閉山となった。やがて北炭が経営していた真谷地、幌内などの炭鉱もそれに続いた。予想していた通り、ドミノ倒しのような閉山の連鎖は他社にも広がり、20年余り後には日本から石炭産業はほぼ消えてしまった。

 

 北炭夕張炭鉱があった夕張市は炭都とも呼ばれ、ピーク時には人口が11・7万人もあったが、今ではその10分の1に満たない。炭鉱閉山後も映画祭の開催などで話題を呼んだ夕張市だが、過大な観光・リゾート投資がたたり、2007年に財政再建団体になった。自治体も事実上の倒産状態に陥ったことになる。

 

 石炭産業がほぼ消滅した今、戦後の復興を支えたのが石炭産業であったことや、総資本対総労働の対決といわれた三井三池の大争議があったことなどを知る世代は少なくなった。各地の盆踊りで炭坑節を踊る姿を見かけると、残ったのは唄と踊りだけかと思う。

 

まつもと・よしお

1969年日本経済新聞社入社

政治、経済、産業の各部 和歌山支局長 産業部次長 熊本支局長 論説委員兼編集委員などを経て2006年2月退社 フリーのジャーナリストに 

著書に『風の記憶 自治の原点を求めて』(ぎょうせい)など 現在 日本自治学会理事

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