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「冒険心の象徴」の地球儀に署名  登山家・田部井淳子さん(福島 申二)2018年6月

 あの地球儀、オークションに出したらどんな値がつくだろう。どうにも俗っぽいが、ついそんなことを考えてしまう。ニューヨークの米国地理学協会に保存されている直径18インチの地球儀だ。

 北極点初到達のピアリー、南極点初到達のアムンゼン、大西洋横断飛行のリンドバーグ等々、近代史を飾る名だたる冒険家や探検家の直筆の署名がそれぞれゆかりの位置に記されている。初めて月面に立ったアームストロング船長の名は打ち上げ基地のある米フロリダ半島にある。

 19世紀半ばに設立された地理学協会が「人間の冒険心の象徴」として選り抜きのパイオニアに署名を求めてきた。女性初のエベレスト登頂者である田部井淳子さんがその71番目、日本人では初となる署名に招かれてNYに来たのは2004年の春だった。

 山を通じて旧知の間柄だったので、当時特派員だった拙宅へ寄っていただいた。エベレストの位置には初登頂したヒラリー卿の署名があり、その下に漢字とローマ字で名前を書いたそうだ。「教科書で習うような人ばかりだから手がこわばっちゃって」。私が不器用にシェーカーを振ったカクテルをなめながら楽しそうに話していたのを先日のことのように思い出す。

 ヒマラヤの8千メートル峰は北極、南極に次ぐ「第3の極地」と呼ばれる。山の魅力は高さだけではないがエベレストはやはり別格で、どれだけ頂上が踏まれてもめざす人が引きも切らない。近年はシーズンになると行列ができ、数年前に通算登頂者は6千人を超えた。そろそろ7千人が近いはずだ。

 ちなみに田部井さんの女性初登頂は通算38人目にあたる。

 

 縛られないやわらかさが真骨頂

 

 それにしてもエベレストという山は、よき初登頂者、よき女性初登頂者を得たとつくづく思う。ヒラリー卿も田部井さんも聡明で気さくな人である。栄誉を鼻にかけることなく、山岳地帯の自然を保護したり、登山などを通じて人を励ましたりする活動を生涯にわたって続けた。2人は仲良しで、ともに広い敬愛を集めていた。

 いつか田部井さんから聞いた話を思い出す。1979年に、それまでにエベレスト登頂に成功した女性3人を招いた催しがあったそうだ。「なぜエベレストをめざしたのか」という司会者の問いに中国の女性は「国家と人民の名誉のため」と答えた。ポーランドの女性は「女性の勝利のために」と語ったという。

 田部井さんはいつも「私には大それたことはなくて、自分のために登ればよかったから」と言っていた。縛られないやわらかさが真骨頂だった。亡くなるまで世界の山に出かけていたが、やはり「自分のあこがれと楽しみ」がエネルギーの源であったと思う。

 晩年、がんと闘いながら明るさを失わず、震災被災地の高校生たちを励まして富士山をめざした姿は広く感動を呼んだ。そのころ私は一つ失態をやった。富士登山の成功を願った手紙の宛名を、どうしたことか「田部井純子様」と書いてしまったらしい。

 私は「純子」ではありませんよという、ユーモアまじりの返信を頂戴して不調法を知った。あわててお詫びを書いた。封筒に「田部井淳子様」と書いたのを3度確認してポストに入れたのが、最後の手紙になってしまった。

 

(ふくしま・しんじ 朝日新聞社編集委員)

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