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「現代の緑雨」の教え 反骨の文芸評論家 清水信さん(臼田 信行)2018年5月

 十数年前、JR両国駅の西口の歩道脇で偶然、小さなその記念碑を見つけて、驚いたことを覚えている。「斎藤緑雨居住跡」だ。先日あらためて見に行くと、記念碑は少し離れた場所に移り、生涯の解説に肖像と英語の説明を添えた立派な銘板に変わっていた。

 

 斎藤緑雨。明治の作家、批評家であり、反権威的なアフォリズム(警句)で知られた。〈按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし〉。夢を指す一本の筆は、現実を表す二本の箸に対しては多勢に無勢。それでも夢を追うのだと、志を込めた反語的な代表作である。

 

 没後百年の2004年、出身地の三重県鈴鹿市では緑雨の顕彰活動が始まり、今では「斎藤緑雨文化賞」を制定して作家や文学者を表彰している。その中心だったのが、同郷の文芸評論家で同人雑誌の批評を続けた清水信さんだ。

 

 残念ながら昨年2月に96歳で亡くなった。1981年から中日新聞夕刊「中部の文芸」に寄稿を続け、亡くなる少し前でも病床でその原稿を気にかけ、中日の編集局長だった私に連絡するようつぶやいたと聞いた。「文士」を貫いた生涯であった。

 

 謦咳に接したのは数えるほどだが、洒落のめす闊達な話しぶりは魅力的だった。政治や社会の動きを辛口に批評して「現代の緑雨」と言われたのもうなずける。

 

 鈴鹿から上京して明治大に入ったときの逸話が愉快だ。「チュウコウのチョクサイの小説はどうだい」という同級生たちの会話が分からなかった。チュウコウは中央公論、チョクサイは志賀直哉のことで「田舎から出てきた俺は何と遅れているのか」と発奮し、年千冊の読書と百回の観劇を決めて実行したそうだ。

 

 地方でも心に残る仕事はできる

 

 戦後は中学教師を務めながら、名古屋で同人誌を創刊。62年から自宅に全国同人雑誌センターを開き、最盛期は年三百冊以上届く同人誌を読み込み、本紙などで評論を続けた。大学や東京の出版社からの誘いもあったが、鈴鹿を離れなかったのは「地方にいても中央に負けない文芸活動はできる」という考えからで、反骨ぶりもこの人らしい。

 

 清水さんの妹と結婚した故浅野弥衛さんは海外からも注目された抽象画家だったが、やはり故郷の鈴鹿のアトリエで作品を描き続けた。スポットライトを浴びやすい東京ではなくても、多くの人の記憶や心に残る仕事はできるのだと、地方紙である中日の記者だった私は教えられたものだ。

 

 戦争と平和に対する姿勢にも、である。「二度と再びこれからの国民に苦しみを与えないように、我々はモノを言い、戦争の真実を記録し、次代の幸福のために戦っていかねばなりません」。8年前の講演「戦争と文学」で語った言葉は、時代や歴史の記録者である記者たちがまず、胸に刻み込まねばいけないのだと思う。

 

 清水さんが亡くなった後の昨年6月、鈴鹿での偲ぶ会で追悼の言葉を述べさせていただいた私は、直後に東京新聞(中日新聞東京本社)の編集局長に異動した。記者生活初めての東京勤務で、首都の刺激の強さには目がくらむようでもある。だから、自分に言い聞かせる。せめて何分かの一であっても、「現代の緑雨」の反骨を忘れないでいようと。

 

(うすだ ・のぶゆき 中日新聞社取締役東京本社編集局長)

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