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スペイン巡礼の旅 -妻と歩いた50日-(江口 義孝)2018年3月

世界中から年間に20万人もの人々が、スペイン西北部のキリスト教の聖地「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」を目指す巡礼の旅がある。スペイン国内でのルートは、北部から、南部から、それにポルトガルからのルートなどがある。このうち最も人気があるのは、ピレネー北山麓の町サンジャンピエドポーから山脈を越えて西へ西へと進む800キロ余りのルートである。

 

今から2年前の夏、長いサラリーマン人生に区切りをつけた65歳の時に、私は妻と一緒に巡礼の旅に挑戦した。出発の半年前から重さ10キロほどのリュックを担いで、20キロ前後を歩く歩行訓練を重ねた。徒歩旅行など生まれて初めてだった妻には、道中で待ち受けている美味しいスペイン料理とワインの魅力に抗えないように仕向けていった。

 

フランス革命記念日の7月14日に出発地点に到着し、巡礼事務所で、行く先々のアルベルゲ(宿泊施設)や教会などで趣向を凝らしたスタンプを押してもらう巡礼の証明となるクレデンシャルを交付してもらい、巡礼者のシンボルとなる赤い十字架をあしらったホタテ貝も購入した。

 

翌朝からは2日をかけてのピレネー越えだった。出発第1日の夜は山間の小さなアルベルゲに泊まった。ここに集った十数カ国の人々との最初の交流が、その後の再会、再々会という形で繰り返されていった。年齢は20代から70代までで、男女比は半々くらい。単独、2人組、3人組、グループと構成はさまざまであった。

 

                    第1日目の宿・アルベルゲでの夕食

  

翌日の標高1450メートルの山越えは、深みのある碧空の下、牧草地の上を吹き渡って来る爽やかな風のお蔭で大した苦も無く歩みを進めることができた。峠に立って見渡すスペインの風景は、一面の森木立の中に赤い屋根が点在する実に見事なコントラストだった。眼下の村は、ヘミングウェーが世界で最も美しい所のひとつと称えたブルゲーテであった。

 

しかし、順調だったのはこの日までで、2日目は炎天下に木陰の少ない路を歩き、脱水症状一歩手前であった。山の中では60代の日本人巡礼者の墓碑にも遭遇した。コンポステーラまでの道程で、私たちが黙祷を捧げた墓碑は優に十数か所を数えた。特に危険だという岩の多い急坂では、転倒したベルギー人女性が腕を骨折して青ざめた顔で座り込んでいて仲間と救助隊を待っていた。

 

目的地までの行程で、膝を痛めたり、筋肉痛を起こしたりして、途中で脱落していく人を何人も見かけた。気温が40度近い真夏の巡礼路を無事に最後まで歩き通すことは、私たちの年齢では決して容易くないと覚悟した。

 

私たちと妙に縁のあった20代の3人組がいた。チリ人のダニエラ、メキシコ人のカルロス、プエルトリコ出身のミゲルのトリオだった。彼らとは初日以来、スビーリ、ロス・アルコス、そして高原の宿泊地オセブレイロでも偶然に再会した。ダニエラとカルロスはこの旅が終わったら結婚するということで、ダニエラは妻に40年以上も離婚しない秘訣をしきりに尋ねていた。妻はスペイン語で、「パシエンシア(忍耐)」と答えていたようだった。ミゲルは、帰国したらアメリカで親戚のレストランで働くことになるだろうと話した。いつも陽気な3人は、一緒に歩いていても本当に気兼ねすることがなかった。

 

私たちは、巡礼路の周辺にある名所や11、12世紀の古いロマネスクの教会建築や宗教美術にも関心があったので、本来のルートから少し外れたところまで足を延ばしてできるだけ見て回った。黒々と鬚を生やした農民のような素朴な顔つきのキリストの磔刑像を主祭壇に見つけると、何故かほっとして親しみすら感じた。聖墳墓教会を擬したとされる八角形のエウナーテの古い教会の優雅な佇まいや、6つの美しいアーチを持つ王妃の橋、キリストの処刑から復活までを石柱に刻んだシーロスの浮彫など数え上げたらきりがないほど、巡礼の道には見るべきものが数多くあった。

 

そうしたものに接するたびに、キリスト教とイスラム教の2つの宗教が混在した時代の技術や文化の見事な融合に思いを巡らせた。                        

 

  

                                  巡礼の華「王妃の橋」                                名物料理ピンチョス

 

妻が同行を決意した最大の動機は、何と言ってもスペインのワインと料理であった。巡礼路には、テンプラニーリョ、メンシア、アルバリーニョ種などの赤白ワインの産地が順に並んでいて、行く先々でその土地のワインを心ゆくまで楽しめた。さらに肉、生ハム、腸詰、チーズ、フォアグラなどを薄く切ったパンに乗せたピンチョスという料理があって、狭い通りに軒を連ねるバルが、自分の店だけの自慢のピンチョスを考案して競い合っていた。バルのカウンターの上にずらりと並べられたピンチョスを見ると思わずたじろぐほどだった。

 

私たちは客の少ない午後の遅い時間に評判のバルに行って、ゆっくりと遅めの昼食を楽しむのが常であった。(写真上)

 

 毎日の私たちのペースは、クロワッサンとコーヒーで朝食を済ませると、朝8時ころにアルベルゲを出発して歩き始め、30分か1時間ごとに休息をとって、15キロか20キロ先にあるその日の宿泊場所に落ち着くというものだった。アルベルゲに着くと洗濯とシャワーのあとワイン付きのボリュームのある昼食を取った。スペインでは夕食は午後9時頃からなので、ほとんど食べることはなかった。

 

高度1000メートルを超える山や高い丘陵の連なりを越えなければならない時は、思うように歩行距離は伸びなかった。特に急な下り坂のルートを行く場合は、転んでけがをするのはもちろん、膝関節を痛めることが最大の敵で、細心の注意を払って歩いた。ひとつの山を越えるのに9時間を要したこともあった。

 

妻は、脱水症状から歩行が困難になることもあり、加えて背中の痛みを訴えて途中の街で治療を受けた。このため、疲労が募ると1か所に2泊、3泊して十分な休養をとることを心掛けた。また、体調を崩す原因となりやすい雨の日の歩行は止めた。今にして思えば過密なスケジュールを組まなかったことが、最後まで旅を続けることのできた最大の「秘訣」だった。

 

残すところあと3日となったところで、広い中庭のあるバルで同年輩と思われるベルギー人夫婦とギターを背にした中年のアメリカ人夫婦に出会った。ベルギー人夫妻は、自宅からここまですでに2000キロを踏破したと淡々と話してくれた。アメリカ人夫妻は、道端のベンチに腰を下ろしてのんびりとギターをつま弾きながら歌を歌っている姿を見かけていた。

 


            収穫の終わった小麦畑を行く

 

ゴールまでの間に、のべ23カ国の人たちと出会った。ほんの二三言、言葉を交わしただけの人から、巡礼の個人的な動機を詳らかにしてくれた人まで様々であった。ほとんどの人が、母国語以外に英語を理解していたように思う。

 

国籍別で多かったのは、スペイン、イタリア、フランス、ドイツ、ベルギー、アメリカ、韓国、アイルランドの順だろうか。アジア人では韓国からの人が群を抜いて多く、日本人には4人家族とひとり歩きの3人に出会っただけであった。カリフォルニアから来たトムとブリアーナは、悠々自適の74歳の祖父と就職前の孫娘の組み合わせだった。幼い息子の病気の快復祈願のために巡礼していたレストラン経営のスペイン人の若い父親。神戸の大学生は1年休学して世界一周の旅の途中で、巡礼の道を踏破したあとはエジプトに向かうと話していた。勤めていた会社を辞めて自由気ままな旅に出た韓国人の若者、大学入学前の休暇を利用して歩いていたミュンヘンの女学生2人組など、ひとりひとりの話しぶりや表情が脳裏にはっきりと刻まれている。

 

800余キロの行程も残り100キロを切ったあたりから、奇妙で複雑な思いに駆られた。先に進むのがだんだん惜しくなってきたのだ。長かったこの旅を終わらせてしまうことへのためらいであった。

 

とうとう最後の1日となり、20キロ余りを歩いてゴールのオブラドイロ広場に足を踏み入れた時には、高揚感ではなく「明日からはもう歩かなくていいのだ。旅は終わった」ということだけが頭の中を駈け廻った。不思議なことに巡礼を成就したという深い感慨も湧いてこず、心の中は意外にも平静で淡々としていた。

 

このあと、最果ての地フィステーラまで行って大西洋に沈んでいく落日を眺めて、3日後に再びオブラドイロ広場に戻って来た。そして、高さ70メートルの大聖堂を仰ぎ見た時に、突如51日間の旅のひとつひとつのシーンが鮮やかに脳裏に蘇ってきて、暫くその場に立ち尽くしていたのをはっきりと覚えている。旅の感慨に浸るには、それなりの時間的な経過が必要であることに気付かされた。

 

(えぐち・よしたか NHK出身 2018年2月記)

 

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